​在宅看取りの記録

Ⅰ 老衰

 老衰、という言葉は、今日的には非常に難しい言葉になりました。平均寿命がどんどんと伸びて世界最高水準となり、100歳の方もしょっちゅうテレビなどに出て珍しくもなくなり、いったいどのくらいの年齢になれば「老衰」という言葉が納得して受け入れてもらえるのでしょうか。
 また、死因、ということからすると、医学の進歩、診断学の進歩によって、従来は老衰と考えられていた方でも、何らかの診断名がついてしまうことも多くなっています。さらに言えば、病院に入院して亡くなる、ということが当たり前の時代にあっては、何らかの病名が「つけられる」方が当然なのかもしれません。老衰、というのは、極論すれば、病気でなく(或いは事故や殺人などでなく)亡くなることを指して言うのであって、入院しているのに老衰で亡くなる(入院しているのに病気ではない)というのはおかしい、ということになります。
 裏を返せば、病院に行かないで御自宅で亡くなる方は、老衰が多い、ということになるかもしれません。病院に行って、詳しい検査をして、何かの病名をわざわざつける、ということが、かえって本人にとって苦痛である、と判断されるような状態や年齢になったら、老衰、という言葉が納得して受け入れられる、ということでしょうか。
 
 訪問診療を始める理由として、一番多く、一番もっともなものは、「病院に通うのが大変になったから」ということです。医者の側からすれば、訪問診療を行うのは、わざわざ訪ねる、という手間の問題も勿論ですし、思うような検査ができない、とか、処置をしようにも物品が揃わない、とか、診療上も大きな制限があるわけなので、できれば外来に来て欲しい。御本人や御家族からしても、できることなら病院に行って必要なときには必要な検査や治療を受けたい。そうした制限がありながら訪問診療を行うからには、行うだけのやむを得ない事情が必要なのです。従って、訪問診療の現場では、高齢で、寝たきりに近いような動けない、外へ出ることができない、という方が多くなります。そうした状況で亡くなる、それが老衰、ということになります。

 あくまで個人的な見解ですが、私は、「食べられなくなったら老衰」という言い方は、かなり的を射ていると思っています。背景に何か疾患があるかもしれない、それはともかくとして、食べられない、飲めない、という状態が長期に続いて、痩せ細っていって、亡くなる、というのが、私の考える老衰の典型的な形です。ですから、「老衰」を少しでも医学的な言葉で説明しようとすると、「低栄養」とか「栄養失調」とかいう言葉がついてまわる場合が非常に多く、実のところ、この言葉が、一般の方々にはとても印象が悪いのだろうと思います。
 例えば、風邪を引く、ということを考えた場合、若い健康な方であれば、仮に熱が下がるまでの間数日横になっているとして、その間お粥を食べたりおろし林檎を食べたり、或いは食べないでお茶だけで過ごしたとしても、それ程の体力の低下はないでしょう。3‐4日後に熱が下がって食欲が戻ったときに、まあ少しからだが軽くなったかな、という程度で、すぐに、とりかえそうとしてもりもり食べることもできるでしょう。しかし、年をとるにつれそうしたことが叶わなくなっていきます。熱が下がったとしてもなかなか前のようには食べられない、水を飲もうとするとむせるようになった、3‐4日寝ていた間に腰が立たなくなって寝たきりのようになってしまう、・・・そうしたことを何度か繰り返していくうちに、ほんの1‐2日のことであっても、絶食をしたり水分が少なかったり、ということに体の方が耐えられなくなってしまう。そうしたとき、風邪を引いて1‐2日でも物が食べられないときには、点滴をすればいいじゃないか、と思う方も多いかと思います。勿論、具合の悪いときには点滴をして水分を補うとしても、しかし、問題はむしろそのあとで、風邪が治ったあと、点滴を終了したあとにも食事が思うように摂れない、ということが、年齢を重ねればいつの日にかは起こってくるのです。
 食事、というのは、どうしたって一番の関心事です。検査をしても、病気は治っている、と言われる、でも、御家族からすれば、以前のように食べなくなった、ほんの2‐3口しか食べない、などということは、毎日の生活の中で非常に不安なことになります。私も、医者としてこうした相談を持ちかけられることがしばしばあります。いや、ほとんど全ての方からこうした相談を受ける、と言っていいかもしれません。しかし、80歳、90歳になって、動けなくなってきていて、御本人が「もう食べたくない」と言っているとすると、それ以上医者に何ができるでしょうか。なるべく「効率よく」栄養の取れる食事を勧めたり、医者としては「流動食」を処方したり、といったことはするとしても、長い経過の中で見て、少しずつ衰えていって少しずつ食事量が減っていっているのであれば、「これが老衰、という状態なのですよ、無理やり詰め込もうとしないで、御本人が好きだった物、おいしいといってくれる物を少しずつでも上げるほうがいいのではないかしら」、ということを、これまた少しずつ時間をかけて説明していく・・・ある意味では医者としては敗北感に満ちた仕事であるかもしれませんが。
 本章の中では何度も出てくる事になりますが、経管栄養、という方法があります。読んで字の如く、管を経て栄養を投与する方法で、一般的には、鼻から食道、或いはその先の胃まで細い管を入れて流動食を流し込む「経鼻経管栄養」と、手術をしておなかから胃までに穴をあけて管を通しておいてそこから流動食を流し込む「胃ろう」とがよく使われます。少なくともこうした方法をとれば、本人が、食べたくない、と言っても、栄養分のたっぷり入った効率のよい流動食を、好きなだけ体に入れることができるので、御家族にとっては安心なわけです。
 勿論私も医者としては、何かの原因で「飲み込む」ということができない方にとって、こうした方法が有効である、ということは当然のこととして理解しています。しかし、この経管栄養という方法は、さらにまた「老衰」という問題を難しいものとしました。上に述べたように、「老衰」という問題がほとんどの場合に「食事量低下」「低栄養」ということと結びついているとすると、考えようによっては、ほとんど全ての高齢者にとって、最後は経管栄養を導入することにもなりかねない。動けない、話もできない、目もつぶったまま、という状態になって、本人は口から食べることをしたがらない、望んでいない、となったとしても、栄養だけは管からいくらでも投与でき、つやつやとした肌のまま、という方を、私自身たくさん見てきました。もうこれは、一昔前の「枯れ木のような」「使い果たした」老衰の最期とは全く違った死に際です。御家族としては、最期まできれいな顔で、と喜ばれる方も多くあります。しかし、これが本当に、「御本人の望んだ」終末期なのだろうか、と考えることも何度となくあります。
 老衰、は、おそらくどんどん減っていくのではないか、と思います。
 

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