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​在宅看取りの記録

Ⅰ 老衰

○○寛司さん、享年84歳  「長い長い終末期」

 ○○寛司さんのお宅に初めて伺ったのは、ある年の11月下旬、前の担当医からの引継ぎにてのお伺いでした。先走ってしまいますが、お亡くなりになったのは2年後の1月、この間約1年2ヶ月ですが、少しずつ食べられなくなって、少しずつ痩せていって、ということの他、特に変化と言ってない、老衰の患者さんでした。1年2ヶ月の間、ずーっとベッドの上で、ぎょろりとした眼を剥いておられた、そんな印象だけが残っています。
 初回に伺った時点で、既に2年以上ベッド上のままで、入浴サービスが入るとき以外はベッドから降りることなし。脳梗塞の既往があって、右半身麻痺、とカルテ上は書かれていましたが、右も左もどちらも動きがある、とは言えない状態、特に両足はピンと伸ばしたままで、膝を曲げようとしてもぴくりとも動かない状態。体は痩せ細って、血液検査上では著明な低栄養。話しかけるとぎょろりとこちらを向いて視線は合わせるものの、自分から喋ることはなく、何を聞いても『うんうん』と細かく首をうなずかせるものの、分かっているのか分かっていないのか、脳梗塞のための『失語』であるのか、長い間喋っていないために喋ることを『忘れて』しまったのか、何もかもわからないことだらけの、置き去られてしまった方のように思われました。
 我々が伺うのは日中、お昼ごろでしたが、玄関を入ってすぐ左の日当たりの良い部屋に、奥様がちょこんと座っておられ、開けはなしのその次の部屋のベッドの上に寛司さんが横になっておられました。息子さん夫婦と同居しておられ、朝夕は息子さんやお嫁さんが食事やら色々介護してくれているようでしたが、日中こまごましたことは全て奥様がこなしていました。
 奥様は、私や訪問看護師が出入りするのを、変な言い方ですが、気に入っていたようでした。伺うといつでも丁寧にお茶を入れ、お茶菓子をあれこれと見繕って、まあ座れまあ座れ、といった風。訪問診療や訪問看護では、まあ、一般的に病院でも皆そうですが、基本的には患者さん方から何かを頂く、ということはしないようにしているのですが、なかなか原則を通すのは難しいことがあります。大学病院などで、有名教授に手術でもして頂こうものなら、何十万円も包むのが当たり前、といった時代があり(今でもそうかも知れませんが)、そうした風潮に対する非難もあり、逆に今では、ちょっとした病院では、「患者様からの頂き物はお受け取りできません」といった旨の張り紙がしてあったりする方が一般的となっています。しかしこれもやはり、「客」として相手の御自宅に上がり込む、我々のような訪問診療・訪問看護の現場では、なかなか線引きが難しいところです。このように、お茶を頂いてしばらくお話をする、といった辺りは、御家族からのお話を伺う、ということも含めて診療の一部のようにも思われますし・・・とまあ、自分に言い訳を作ってみたり。
 しばらく話は脱線しますが、もう少しこの「頂き物」のお話を。訪問診療や訪問看護では、この「お茶」のことというのはどうしてもついて回ります。我々の側からすると、いくらお宅に伺うとは言っても、次々と仕事を遂行している、という認識で、のんびりお茶など頂いている余裕はない、と厳しく考えてみたり、もっと現実的には、次々お茶など頂いていると、特に冬などは尿意を頻回に催してくるのですが、外回りの途中にそうおいそれとトイレに行くことができない(なかなか訪問先のトイレを借りる、というのはしにくいものです)、こちらの方が深刻です。しかもそこにお茶菓子など付けてもらった日には、これが大概は巨大な大福であったり、焼き芋であったり、となると、しかもしかも、それがたまたま2軒も続いてしまったりすると、昼食どころか夕食分まで頂いてしまったような満腹感で、後のお宅に伺う気力が殺がれてしまったり。しかし逆に、患者さんの側からすると、我々は勿論仕事のために伺っている、そのことは当然なのですが、それ以前にまず、自宅を訪れた客、であり、茶を出すのは当然当然、当たり前のことで、長い年月身についた立派な習慣、文化なのでありましょう。こうしたことは、「田舎」に行けば行くほど、また、お婆ちゃんであればあるほど、当たり前のことで、したがって、我々も断りにくいものです。こうして書くと、私がこうした「お茶」を心底嫌がっていて、やむを得ず我慢している、といった風ですが、必ずしもそうでもない、とまたそう書いてしまうと、お茶を出さないお宅に失礼にも聞こえかねない、結局は、色々なお宅があり、お互い失礼にならないところで折り合いを付ける、という、当たり前のことをそれぞれにしている、というだけなのですが。
 この「お茶」についても、初めて私が経験したのは、研修医生活を送った、長野県の佐久総合病院で、のことでした。特に印象に残っているのは、訪問に伺っていた山間部のお宅で、いつでも小鉢を7つ8つ、煮物だの餅だの漬物だのを用意して我々の行くのを待ち構えているお婆ちゃんのことです。これがまあ、おいしいこともおいしいのですが、とても食べきれないほどの量。診療に伺っていたのは御主人の方だったわけですが、恥ずかしながら、御主人のことは今となってはほとんど覚えていません。町の感覚で思い出すと、山里にポツリポツリとある「民家」の一軒、開かれた縁側から上がり込んで、訪問の度に、1時間もかけてお茶とお茶請けを頂いた覚えしかないのです。看護師さんに聞くと、いつでも訪問診療の予定の日には、早朝からお婆ちゃんが支度をして、精一杯の御馳走を作る。私の前に担当していた訪問診療の医師が何人もいたのですが、色々な医師がそれぞれにお断りをしてもとにかく作って、机に堂々と並べた状態で待っていて下さる、食べきれた医者はほとんどいないし、何しろ味付けが甘いので皆ダウンする、そこで研修医に白羽の矢が立った、というのが真相のようでした。
 何しろ研修医の頃というのは、独身で、夜も昼もなく病院に泊り込んで、ろくなものも食えず、当時私は1日1食食べるのがやっと、という生活でしたので、確かにこのお宅に伺うのは嬉しかった。確かに当時の自分としても甘い味付けは少々苦しかったように思い出しますが、地元の看護師さんの話では、雪こそそう多くはなかったものの寒さの厳しい、そして元々は貧しい土地柄であった信州佐久盆地では、山菜でも何でもこうしてあまーく味付けするのが最大のもてなしだ、と言う。梅干までも甘かったように思い出します。毎回完食することがお前の仕事だ!と、上級の医師からも言われ、心して毎回通ったものでした。特に覚えているのは柏餅、勿論ちゃんと庭の柏の葉をとっていてくるんだ、本物の柏餅で、これがいくつもいくつも出て来る。
 佐久病院では、こうした「頂き物」についての決まりはないのだろうか、と上級の医師に尋ねてみると、「農産物は頂いてよい」ということが明文化されているのだ、と。このことにもびっくりしました。これが農村医療を標榜してきた佐久病院の精神の一つの表れであり、すなわちこうして出される御馳走を全て有難く頂くことも、医療者としての大切な実践であった、とまで言っては言い過ぎでしょうか・・・・・・
 さて、些か筆が滑り過ぎました。寛司さんのお宅を思い出すとき、なぜかどうしてもこの佐久で頂いた甘い御茶請けを連想してしまいます。私が診療で伺うときには、それでもお茶を頂かずに帰ることもあったのですが、訪問看護師さんが単独で伺うときには、処置などの後、必ずお茶とお菓子で数十分は話し込んでいくのだ、とのことで、かえって女性だけでゆっくり話したいことも多かったのでしょう。
 ここでも、奥様の方のことばかり、になってしまいますが、訪問診療や訪問看護では、こうして、カルテ上の患者さんではなく、介護をしている方がむしろ、陰の「患者さん」のような場合が多くあります。決して奥様は、病気、ということではなかったのですが、どこへ出かけるでもなく、日常御主人の介護を中心に日がな一日過ごされ、我々の来訪を待っておられる。
 寛司さんの方は、と言うと、先に書きましたように、私が初めて訪問に伺ったときから、もう手も足も動かすことがほとんどできない状態で、既に痩せ細っておられ、奥様が介助して食事を食べさせてあげていましたが、かなりの時間をかけて、ムセながらやっと、という状況でした。それでも何とか曲がりなりにも口から食べている。私の方でその後の診療として行ったことは、知る限りのこととして、飲み込みやすい食事の形態や姿勢をお教えするとか、少しでも食事介助がしやすく、褥創が軽減するように、介助ベッドやマットレスを新製品の物に交換してもらったりとか、という、むしろ介護上のアイデアが主で、医療的になかなか改善を目指すことは難しい状態でした。それも、例えば、ベッドの上で水分を飲ませてあげるのは、ムセも強くなかなか危険、ということで、一般的なこととして、とろみ剤で少しとろみを付けることなども紹介しましたが、奥様の方で数度は使ったようですが、使った実感としてもそれ程ムセない、というわけでもない、と思われたのか、いつの間にか立ち消えになる。実を言えば、奥様は、食事をいったん自分で噛み砕いてから寛司さんに食べさせていたこともあるとのことでした。これはまさに、家族(夫婦)ならではの理想的な「嚥下食」で、ここまでやった方にとっては、「とろみ剤」などいかほどのものでもない。手間、ということを考えれば、他人としてみれば、噛み砕いてあげることの方が手間に思われるかもしれませんが、実際には奥様は、ごく自然なこととして、乳児に上げるようにそうされておられた。とろみ剤などの方がいくらも「手間のかかる」ことに思えたでしょう。このレベルになると、「こうすれば、万全の状態である」として勧められることも少なく、確率的に、少しでもましなこと、という程度になるので、介護者の手間も考え合わせると、なかなかすっきりとは行かない。
 もう一つ、医者として難渋したのは、やはり褥創(床ずれ)でした。特に足は、膝を曲げることが少しもできず棒のようにまっすぐで、また、長期間ベッドの上で動かない状態で、膝から先が、90度外側に倒れたような形になってしまっていて、通常であればあまりできないような、脛の外側に、広範囲の褥創ができてしまいました。その他、お尻や、手足の指、後頭部、などなど、全身が棒のような状態で、しかもどんどん痩せも進んで骨がごつごつと出っ張っており、どこかの部分を防ごうと姿勢を工夫しても、別の箇所にまた創ができてしまう、ということの繰り返しでした。
 寝たきりはいない、日本の場合、寝かせきりだ、と、北欧などと比較して、日本の高齢者の状況を嘆く言葉もよく耳にします。基礎となった病気はともかくとして、こうしてベッドの上で動くことなく、じっと天井を向いて寝たままでいれば、体も動かなくなり、頭もよく働かなくなり、喋ることも忘れ、口を動かさなくなるので、食べることもできなくなっていく。「寝かせきりにしておくから、寝たきりになるんだ」、と、そのことはもっともだろう。しかし、では、こうして衰えた方に対して、どれだけの若い労働力と、どれだけの税金(或いは、介護保険や医療保険、年金)を注ぎ込んで、寝かせきりにしない努力をするのか、・・・こう書いてしまうと、とてもいやらしい議論のように見える。「苦しんでいるお年寄りを前にして、情のない話をするな」と。しかし、医者をやっていれば、苦しんでいる人はそれはそれはたくさんいて、その人たち全てに充分な助けを差し伸べてあげられないことは厳然たる事実であることをいやと言うほど知っている。増えていく高齢者の生活を、誰が、どの程度まで援助をするのか、それは、国全体に、国民一人一人に問われていることですが、今、現実に我々の前には寛司さんのような患者さんがまだまだたくさんおられます。
 医療的には、「病気の最初の段階で、きちんとしたリハビリテーションを受けられる体制作りを」とか、「自宅に戻ったあとでも継続して起こしたり離床したりできるように、介護体制をもっと充実させるべき」とか、色々な問題点、色々な主張をすることができ、私自身仕事柄としては、微力ながら、そうした方向に向くように、という立場ですべき活動をしています。しかしその一方、現場であまりにも多いこうした寛司さんのような患者さんを見、また、これからもどんどん増えていくであろう高齢者と減っていくであろう若年者を思うとき、本当に、高齢者の介護体制がもっともっと充実した方がいいのか、いいと自分は考えているのか、なかなかはっきりとは答えにくいのです。
 寛司さんの創の処置というのは、ある意味本当に苦痛でした。治るあてのない治療、と言ってよかった。無責任に聞こえるかもしれませんが、どんな病気にしろ怪我にしろ、治るためには一定の条件があり、医者としてその条件は知っていて指導することはできたとしても、その条件が達成できない、という場合も多くある。例えば、今回のようにいったんできた創を治そうとすれば、栄養もきちんと摂らなければ肉が上がるということがないし新しく皮膚ができるということも遅れる。逆に言えば、極端な話、しっかり栄養を摂って、創が床に当たらないように体位をうまく調整してさえおけば、放っておいても創は治るものである。しかし、寛司さんの場合には、上に書きましたように、体位を調整しようとすれば、他の箇所に褥創を作ることになりかねず、栄養を充分に摂る、ということはできない状況になってきていた。栄養が摂れないから創ができた、という見方もできるのであって、こうなると、鶏が先か卵が先か、ということになる。結局のところ、こうした高齢者の終末期の状況にあっては、栄養、ということが全てに引っかかってきてしまうのであって、自虐的に、いっそのこと80才以上の方は全員胃ろうを作って、毎日充分に栄養を入れたらいい、とさえ思うことがあります。つまりは、寛司さんの状況では、この創はもう治らないだろう、と思いながら、訪問看護師や御家族にも指示をして、連日の処置を続けざるを得ない、勿論、「現状維持」ということにも意味はあるとは思いながらも、医者としては、治るあてのない治療というのはきつい。
 「終末期医療」という枠組みの中では、患者さんに苦痛を与えることを極力避けるべき、とされることから、例えば背部に大きな褥創があっても、ある程度の時間横を向かせて処置をすること自体に苦痛が大きいために、治るあてのない処置はしない、ということを選ぶこともあります。しかしこれは、一般的には、はっきりと「終末期」ということが誰の目にも明らかになっており、本人も処置の苦痛を強く訴える場合、などやはり色々な条件が必要になります。
 終末期、という言葉も、非常に問題の多い言葉です。いささか古い資料ですが、日本医師会が出している「終末期医療について」というパンフレットでは、「『終末期』ということをどのように決めるかについては、まず、これまで『ターミナルケア』という用語が使われる場の中心にあった進行癌の場合、生命予後(余命)について『半年以内』、『一年以内』といった区切りをつけて、ターミナル期としていることが多かった。・・・」とした上で、さらに、今日終末期、というのが、癌に限った問題ではなく、「高齢者に特有の問題、小児の難病、神経難病、さらには救急医療のような場面も含んでいる」とし、「・・・このように様々な疾患も含めて考えると、生命予後の長さを共通の物差しにして『終末期』とは何かを決めるわけにはいかないことは明白である。一方で、数年単位で『終末期』が考えられるような医療の場面もあるが、他方、例えば救急医療にあっては、事故や発作が発生したときに、既に数時間~数日の生命予後となっていることも多いからである。」と結んでいます。これはまことに、医師の側、臨床の現場の側からみた言い方で、私なども非常に妥当だと思う。終末期、というのは、単に「どのくらいの余命か」という長さではなく、疾患によって、或いは、個々の状況によって見定めなければならないもので、場合によっては数年単位、ということもある・・・私達のような在宅医療の現場では、「老衰」という形で、こうした数年単位での終末期ということを考えざるを得ないケースが多い、寛司さんも、そうした中のお一人だった、と思っています。
 しかし、やはりこうした見方というのはあくまで現場で働く者の意見で、実際に当事者になってみた場合に、数年間もの期間が「終末期」とされることはなかなか受け入れにくいことでありましょうし、さらに、上に述べたように、だからすぐさま、傷の処置をやめていい、というような具体的な話に結びつけることはいっそう難しい。今日終末期に関する議論が盛んに行われている背景には、一つには、尊厳死や安楽死の問題と絡めて、ということがありますが、そうなると、数年単位、などという終末期の考え方はますますすぐには受け入れにくいものでしょう。
 亡くなる前の月、12月に入った頃、「すっかり喋らなくなったねえ」と奥様が言われました。寛司さんは、それまでも、我々からすると「喋る」ということではなく、うなずいたり、唸り声のような声を出したり、というくらいにしか意志表示をしなかったのですが、いよいよそれもしなくなってきたようでした。奥様はあれこれと苦労して食事を食べさせてくれてはいましたが、それでも、私が2週間ごとに訪問する度に痩せていくように見えていました。「何とか年を越せるかねえ」「そうですねえ」、と、そういう会話を、奥様とゆったりとしました。
 それでも年越しをし、1月17日、朝に、御家族から「様子がおかしい」と連絡が入り緊急往診。伺った際には目を開けてきょろきょろしておられましたが、朝お嫁さんが声をかけても目を開けず、反応がなかったので、慌てて電話を寄越したようでした。もう御家族も、限界だ、ということを充分了解しておられたのでしょう。呼吸状態も精一杯の努力をしている様子で、浅く回数の多い呼吸で、手足の先は色が悪くなっていました。「もう食べられていないでしょう、もう1-2日かもしれません。」とお話ししましたが、奥様も息子さん夫婦も、すっかり承知しているようにうなずきました。その同じ日の夕方6時前、「心臓が停まったみたいです」、と電話が入り、伺いました。最後にジュースを少し口に含ませたら数口飲んだ、そのあと見たら、息をしてなかった、と、穏やかなお看取りでした。
 本当に失礼な言い方になるかもしれませんが、振り返って考えてみると、1年2ヶ月もの長い間だったにも拘らず、主体であったはずの寛司さんは、「どこまで生きていたのか」よく判らない程、とても透明な印象しかないのです。日常の生活のまま、長い長い終末期の末に、どこかで寛司さんは亡くなられました。

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