在宅看取りの記録
Ⅰ 老衰
○○菊子さん 享年91歳 「もう家族も集まっている」
○○菊子さんは、77歳のときの脳梗塞で、右半身麻痺と失語の残った方でした。私が初めて訪問したのは、その14年後の11月22日。高速道路のインターチェンジ近くの、見晴らしのいい場所にある、綺麗な洋風のお宅でした。
主に介護しておられるのは娘さん、この方も60歳近く(あるいは60歳台)、とても活発な方で、家の中は、娘さんの作った陶芸作品でいっぱいで、庭先・玄関先はよく手入れされた花であふれていました。菊子さんは、日がな一日、一人がけのソファーに座って、もぐもぐと口を動かしながらきょろきょろと辺りを見回している、贅肉のないお婆ちゃんでした。
もぐもぐと口を動かしているのは、高齢者に良くみられることで、格別な異常とは捕らえませんが、聞いてみると、食欲旺盛、というのか、度々「異食」を繰り返している、要するに、近くにあるものを何でも口に入れて「もぐもぐ」してしまう、とのことで、小銭やら煙草やら、薬やら食器やら、手の届くところにある物は何でも食べてしまうのだそうです。いつでも本当に空腹でもぐもぐしていたのかもしれません。
右半身の麻痺は、手はほとんど動きませんでしたが、足はごく軽い麻痺のみで、1日に3‐4回は、娘さんが正面に立ってつかまらせて、トイレまで歩いて行っている、という状態。しかし、言葉は全く喋ることができず、話しかけても、視線は合うものの、表情の変化もなく、恐らくは問いかけの理解もできていない様子でした。それでも、こういう言い方は失礼なのかもしれませんが、訪問した際に、いつもソファーに座って、飽きることなく口をもぐもぐさせている姿は、奇妙な幸福感にあふれていて、悲壮感を感じることのない方でした。
菊子さんの最期は、あっけないものでした。もともと、いくら口を良く動かしているから、と言っても、口の中に食べ物を入れれば旺盛に飲み込む、というわけでもなく、むしろなかなか飲み込まないでずーっともぐもぐを続けている、という状況で、決して食が太い、というわけではなかったのです。(だから、小銭を口に入れても飲み込みまではしなかったので助かっていたのですが。)それで、栄養補助のために、流動食をある程度処方し続けていました。訪問を始めてから半年後、穏やかな5月末のある日、「食事が飲み込めない」「口をほとんどあけない」という娘さんからの連絡が入りました。往診の上、診察、採血検査等行いましたが、軽度の炎症所見はあり、軽い風邪程度はあったかもしれませんが、その時点で既に3-4日食事が細くなっていた状態で、脱水の方が主たる問題でした。特に熱があったり、呼吸が荒かったり、というわけではなく、ただ元気がない。高齢者の方の場合には、何かの原因で(風邪、もそうですが)、1日食事が摂れず脱水傾向になってしまうと、そのことによってさらに元気がなくなり、食事が摂れず・・・・・・という悪循環に陥って、食事の摂れない状態が続く、ということはよくあります。そこで、とりあえず原因のことはさておき、その場で点滴を500mlゆっくり、としました。
その後は、一進一退、一喜一憂、の状態が続きました。点滴後、翌日には、ベッド上で動き回って足を柵に挟んで、皮をベロリとむいてしまったため、往診して処置。これも少し元気になった証拠かな、というところで、その後しばらくは、少しずつまた食欲も上がり、表情も良くなってきましたが、6月6日訪問した際には、「流動食はむせながらもごくごく飲んでいるが、固形のものを受け付けなくなった」と。そこで、流動食の処方を増やして様子を見ることにしました。
この時点で、「食が細くなった原因をはっきりさせて、治療に結び付けようとするなら、入院して検査をしては」というお話はしていましたが、娘さんは、入院に良い思い出もなく、婆ちゃんも望まないだろう、年齢的には不足はないのだし、と、御自宅での介護を継続することを選ばれました。決してこちらも積極的に入院を勧めたわけでもなく、ただ、後々後悔するケースもあるので、一応勧めてみた、という程度の話でした。この時点で、やはり「元気」が落ちてきていること、すなわち、もうそう長くはない、ということが、皆の雰囲気として共感されていたのです。医師としてできることはもうほとんどなくなってきており、御家族の不安や悩みに対する対応も含めて、これ以降は訪問看護師に来てもらうように体制を組み直しました。
娘さんは、一貫して毅然としておられました。それは、決して冷淡な、というものではなく、やるだけのことはやってきた、入院も何度もした、その終点として今の状態になって、あとは家で見てやりたい、というはっきりしたものでした。言い換えれば、自分が家で介護をする、ということに、自信もあったのだろうと思います。
我々も、長くこの仕事をしていても、「こんな状態になったから、入院しましょう」とか、あるいはさらに高齢になって、「こんな状態だから、入院してもきついだけだし、入院させないで家で見てあげましょう」とか、ということを、自信を持って言えることはありません。教科書的に、きちんと線を引ければそれは楽なことだろうと思います。90歳を過ぎてるから、入院はさせない、とか、自分で食事ができないから入院はさせない、とか、という線引き。我々が在宅訪問診療をしている方々の多くが、高齢から超高齢で、自分の意思表示が十分にできない方がほとんどですので、入院をさせるかさせないか、という判断は、ほとんどの場合、介護者(家族)との話し合いで決まります。軽い風邪程度と診断しても、家族が日中仕事をしていて見てやれないから、と強く入院を望まれるケースもあれば、3日程入院して治療すれば明らかに改善しそうな方でも、認知症で夜に騒いで病院に迷惑をかけるから、などと入院をしたがらないケースもあります。菊子さんのような、さらに進んだケースでは、入院をするかしないか、ということでも、結局のところ、皆の死生観が問われるようなことになります。もうそろそろ最期だ、ということを受け入れるか、それとも認めないのか。受け入れるならどう受け入れるのか。
6月6日の訪問診療以降は、週2-3回訪問看護に伺っていました。状態は、「大きな」変化はなく、増やした流動食をよく飲むこともあれば、ほとんど飲めない日もあり、それ以外の食事も同じく、食べることもあれば、口にも入れない日もある。今までどおり日中はソファに座り、トイレにも連れて行くようにしていたようですが、段々「弱って」行くのが娘さんにもわかっており、ベッドにいる時間も多くなり、オムツをつける時間も少しずつ増えていきました。
6月17日、土曜日の夕方、「朝から熱があるんです」と連絡が入り、16時過ぎにお訪ねしました。なんと、娘さんは既に最期を予感されてのことか、前の日から遠方の兄弟姉妹達を呼び集めておられました。ずらりと親族が勢ぞろいをした中で、菊子さんの診察をさせて頂くと、体熱感も著明、39.0度の熱があり、肩で呼吸をするような状態で、聴診上も、左の肺の呼吸音はほとんど聞かれず、肺炎と思われました。
その旨を皆さんにお話しし、あらためて入院についても問いかけをしました。
集まった皆さんも、覚悟はできているようで、遠方の息子さんも、「今まで姉に任せっきりできましたので、いまさら口は出しません。家で見てきてもらったので、最期まで家で姉に任せます。」とおっしゃる。いつ頃でしょうか、と問われましたが、「はっきりとはお答えしにくい、水分が全くとれなければ、明日・明後日も危ないでしょうが・・・」くらいにしかお話しできませんでした。その場では、解熱剤と抗生剤を処方はしましたが、もう、効果を期待する、というよりは、あくまで御本人を「楽」にさせてあげるための使用となります、とお話ししました。
それでいったん我々はお宅をあとにしました。私は正直なところ、もう1日くらいはもつだろうか、と思っていたのですが、私が自宅へ戻って程なく、20時近くになって、「呼吸が停まりました」と連絡が入り、再度往診、看取りを確認しました。
500kmかなたにお住まいの息子さんは、いったん戻って出直してくる、と、列車で夕方に自宅へ向かったそうですが、あわてて連絡をとり、また戻ってきてもらうことになったようです。それ以外の方々は皆残っておられ、最期は、娘さんが抱きかかえて、腕の中で呼吸が停まった、ということでした。我々が到着したのは20時20分頃でしたが、御家族が呼吸の停まったのを見たのは、19時35分、とのこと。約45分のタイムラグがありました。娘さんも、呼吸が停まってから我々に電話を入れるまでの間も、しばらく逡巡されたようです。在宅訪問の場合には、こうしたことが当たり前であり、この45分の間に、ある意味で、御家族は、医者や看護師の診断などなくとも十分に「死」を納得できるのでしょう。我々も通常どおり、形ばかり聴診器を当てはするものの、死亡時刻は、御家族の申告に沿って、19時35分、としました。
こういう言い方が良いのかどうかはわかりませんが、我々にとって、理想的な看取りの一例だったように思います。私は個人的には、医者や看護師がその瞬間に立ち会っていない方がいいと思っています。死は、実際には「瞬間」ではなく、ある程度の(かなり長い)経過として現れるものです。我々は病院での医療に慣れていると、通常最期の時には心電図モニターなどをつけて、心電図が停まった時点で死を宣告することが多いのですが、これはあくまで「心臓」の死を意味するもので、全身の一つ一つの細胞レベルまで死に絶えているわけではありません。極端に言えば、心臓が停まっても、耳は聞こえている、ということもありうるだろうと思います(脳死の判定基準には、聴性脳幹反応、という項目が入っていました)。御家族は、他人のいない、身内達だけの御自宅で、ゆっくりと時間をかけて、菊子さんの死の全てを体験されたのだろうと思います。
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