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​在宅看取りの記録

Ⅰ 老衰

○○末子さん、享年93歳「元旦から」

 ○○末子さんは、年末から具合が悪くなり、お正月早々に御自宅で息を引き取られました。元旦から往診に伺って、正月の内は連日看護師と交替で点滴に通った思い出深い方でした。
 末子さんのお宅は、その頃我々が訪問に通っていた中では最も遠いお宅でした。隣町の駅から山へ向かって入り、延々と車を走らせて、峠、と言ってよいのでしょう、上り坂の尽きるあたりにぽつんと一軒見えるのがそれでした。それも、街道からまたさらに急勾配を登った上、秋のうちは本当に紅葉の美しい、見晴らしのいい高台のお宅でした。
 私が伺うようになったのは、ある年の11月から。前任者から引き継いだ形での訪問診療でした。末子さんは当時92歳、脳梗塞の後遺症で左半身麻痺があり、自分では立ったり歩いたりは全くできない状態。息子さん夫婦との同居でしたが、その方たちは日中仕事に出ているので、近くに住んでいる末子さんの長女、次女が、昼は毎日入れ替わりに来て、末子さんのお世話をしている、ということでした。私が初めて伺ったときには長女の方がおられました。
 11月も末、山の上は既に寒く、末子さんはベッドの中でちんまりと丸くなっていました。バルーンカテーテル、という、尿を取る管が入っていて、ベッドの脇に尿のたまった袋がぶら下がっています。末子さんは、ご挨拶をしても、ひょい、と顔を向けただけで、また黙って丸まってしまいます。無駄な肉のない、細い小さなお婆ちゃん。
 長女の方の話では、朝ごはんはベッドで、同居しているお嫁さんが食べさせて仕事に行き、午前中に長女さん、次女さんが日替わりで来て、昼食前には車椅子に起こして居間に移して、昼食を食べさせる。午後にまたベッドに戻して、夕食はまたお嫁さん、といったスケジュールで、ここ何年か経過している、とのことでした。食事も自分では食べられないので、全部介助して食べさせてあげる。92歳の末子さんの娘さん達ももう60歳を越え、介護そのものは大変になってきているようですが、それぞれの家庭は落ち着いておられ、もう生活のパターンとしては慣れてしまっているようでした。末子さんは、コミュニケーションは取れないのかと思いましたが、日中起こしているときにはあれこれよく話したりもする、と。でも、会話としてはほとんど成り立たないとのことでした。
 私は基本的には、初めて伺った方の所では、ベッド上寝ている方であればまず起こしてみたり、起きている方であれば歩いてもらったり、と、どのくらい動けるのか、ということを確認することにしているのですが、既に92歳の方で、状況を伺う限りでは少なくとも今後動き具合が「良くなる」ということは考えにくく、起こすことはしませんでした。同行していた訪問看護師さん達は以前から通ってきており、バルーンカテーテルを定期的に交換したり、便が出にくいようなときに摘便をしたり、といった関わりをしていたようです。前医からの報告では、時々膀胱炎を起こして熱を出したり、ということが頻繁だったため、バルーンカテーテルを入れた、となっていましたが、ここ最近は特に熱を出すこともない、ということでした。
 勿論、ほとんどの方がそうなのですが、末子さんは特に医者として今何かをしなければならない、という状態になく、それまで出されていたお薬を継続して出しておく、というだけのスタートでした。
 それから1年、末子さんについての変化らしい変化は特に覚えていません。末子さん御自身については、私の伺う時間によっては起きて居間で昼食の頃だったり、ベッドの中で丸まっていたり、ということの違いはあり、確かに起きている時の方が表情もはっきりしていて、言葉もだいぶ出るようでした。昼食が終わった後にお訪ねした時、「お昼は何を食べたんですか?」と聞きましたが、「まだ食べてねえ」とおっしゃり、記憶はともかく、簡単な会話は一応成り立つなあ、と思ったことを覚えています。この1年間、特に熱を出したり、臨時の往診に呼ばれたり、といったことはなく、多くの場合、バルーンカテーテルの管が詰まりかかっていたり、便が出なかったり、といったことで訪問看護師さんが対応するケースが多くありました。しかし、全体的に見て、少しずつ食事量が落ちてきて、むせたりすることが増え、食事にかかる時間が長くかかるようになってきた、という食事の問題が御家族から聞かれるようになってはいました。
 先走って言えば、末子さんのケースもまた、「老衰」ということの典型的な例です。92歳、特別な疾患はない、脳梗塞の後遺症もあり「自立した」生活は困難、自分では動けない、おしっこも出にくくなってくる、段々に食事が摂れなくなってくる・・・・・・「食事が摂れなくなればおしまいだ」、ということは誰でも分かっている。でもそうなる前に、歳をとって、動けなくなって、排泄も難しくなって、自分では食べられなくなって、という段階が、長い時間の経過の中にはちゃんとある。緩やかに進行している内にはそれが「老衰」だとはなかなか気づかない、というか、気づいてはいても、その終点に「死」がある、ということまではなかなか考えないのが普通なのでしょう。しかし、我々のような仕事をしていれば、そういう風にして人が死ぬ、ということは当たり前のことのように思われます。
 もっとも、「老衰」という言葉には様々な問題があります。医師として正直なところを言えば、正確な診断がつかない(病名をつけられない)死に対して、年齢が不足なければ、老衰、と書かざるを得ないわけですが、これは例えば、入院をしていて、死因をはっきりさせようと思えば、死後であっても検査を行ったり解剖を行ったりして、何らかの死因(病名)がつけられる可能性もある。つまり、戦後、日本人が家で死ぬことが少なくなり、病院で死ぬことが多くなったことに歩調を合わせて、老衰死、というのは減っている可能性はあります。ある統計では、あくまで死亡診断書に書かれた死因の項目について、ですが、死因が老衰とされたのは、昭和45年5.5%、昭和55年4.4%、平成2年2.9%、平成12年2.2%、平成17年2.4%だそうで、最近は少し盛り返しているようでもありますが、診断技術もどんどん進歩して、老衰の代わりに何かの病名がついてしまう傾向は進んでいるのです。最近はアンチエイジングなどという言葉も当たり前になり、まあもっとも昔からのことなのでしょうが、老いる、ということが憎まれ、いずれは克服可能であるかのように喧伝されています。不老不死が達成されれば、無論老衰という言葉も死語になるのでしょうが。
 末子さんの場合に対応が難しかったのは、色々な方が介護に入っていた、ということもありました。当初私がお目にかかっていたのは、先に書いたように長女の方でしたが、その後、私の訪問曜日が変わったり、娘さんたちの担当曜日が変わったり、ということもあり、お会いするのは長女の方であったり次女の方であったり、或いはまた訪問看護師が訪問したときにはお嫁さんがおられることもあったり、と、それぞれの方からの情報やそれぞれの方の希望に食い違いがあったり、こちらからお話しした内容もうまく伝わってはいなかったり、というようなことはしばしばでした。長女さん、次女さん、お嫁さん、のそれぞれも、直接顔を合わせることはほとんどなかったようで、ノートなどに書いて情報を伝えるようにはしていたようですが、それでもなかなか微妙な話はうまく行きません。そもそも私は、「主治医」という立場でしたが、末子さんと同居している息子さん御夫婦とお会いすることは全くありませんでした。
 隠語、というか、専門用語というか、キーパーソン、という言い方を我々はします。鍵となる人。通常、医療の場合には勿論、患者さんの診断や治療について最終的な決定権を持っているのは「患者さん当人」であるはずなのですが、私共のように、高齢者の方、脳梗塞後遺症などのある方、認知症の方、等々、御本人が状況を理解して意思表示、意思決定をすることが難しい状態の方が患者さんとして多い場合には、誰か他の方にそれを担ってもらうことになります。末子さんの場合、普通に考えれば、息子さん夫婦と同居をされており、おそらくは医療費含めて経済的にも主として息子さん夫婦の扶養となっているものと思われ、息子さんがキーパーソンである、ということになりそうですが、少なくとも息子さん側から、私と会っておきたい、というようなお話しはありませんでした。訪問診療を行っている医師が代わったのはこちら側の事情でしたから、丁寧に、と思えば、一度お目にかかって、堅苦しく言えば、「治療方針」とか、「御家族としての意向」とか、ということをすり合わせておくべき、ということなのですが、病院に入院したり、外来に来てもらったり、という場合には必然的にこうしたキーパーソンとお会いすることはあっても、在宅訪問の場合にはなかなか困難であるのが実際です。また、末子さんのように、さして日常生活に変化がなく、病気の状態が悪化している、とか、ということでもなく、ただ単にこちらの事情で医師が交代しただけ、ということでしたから、あえて時間をとって息子さんに同席してもらう、ということがしにくかった・・・というのが言い訳です。
 さらに言うと、こうした、在宅での「介護」が中心となっているような方の場合、男の方がなかなかキーパーソンになりにくい、ということもあります。勿論、今日的には、奥様を介護している御主人だったり、お母さんを介護している息子さんだったり、男の方が介護の現場に入っていることは珍しくないので一概には言えませんが、末子さんの場合、状況を聞く限りでは、「日中は長女・次女」「夜は嫁」というのが主たる介護者であり、息子さんが、末子さんの「状態」についてどれだけ把握しているか、は疑問でした。また、こうして二人、実の娘さんが入っておられると、お嫁さん、というのもまた一歩引いたようなポジションになりがちで、キーパーソンとなりにくいことが多い(あくまで一般論ですが)。というわけで、誰がキーパーソンと考えるべきか、はっきり言えば、誰が一番発言力が強いのか、が、なかなか見えにくい状況でした。
 実際に困ったこととしては、薬の調整がありました。前医から処方されていた薬の中には、抗生剤や睡眠薬が入っていました。抗生剤については、以前から度々膀胱炎を起こしていた、とのことで、置き薬として持っていてもらって、熱が出たときなどに、電話などで連絡をしてもらって、必要であれば飲ませてもらう、ということをしていたようで、こうしたことは時々あることです。土曜日日曜日や休日などに必要になっても、薬局が休みであったりしてすぐには薬が出せないこともある。それで、しょっちゅう同じような発熱などが予想される方については、置き薬として処方しておく。ところが、末子さんの場合には、どうもあまりにも頻繁に使っているようで、ほぼ毎回のように抗生剤の処方を要求されました。いったいどんな飲ませ方、使い方をしているのか、と確認しようと思っても、たまたま私がお会いしている方が、日中介護の長女の方だったとしても、「私は使っていません」というだけで、実情はわからない。他の次女の方や、お嫁さん達が、何度くらいの熱が出たときに、どういう症状のときに使っているのか、がわからない。また、使った、ということをお互いの間で連絡をとっていない。抗生剤の濫用というのは、MRSAなどで有名になりましたが、抗生剤の効かない耐性菌を出現させやすくなり大きな問題で、本人のためになりません。
 睡眠剤の場合も同様でした。高齢の方で、「夜に寝ないから」と言って、概ね御家族が睡眠剤を要求される、ということは往々にしてあることで、日本の保険医療の中では、医者の方も、要求されれば比較的ほいほいと安易に薬を出しがちです。しかし、「病気」として本当に睡眠剤が必要となるケースはほとんどありませんし、当たり前のことですが、副作用等考えれば、使わないに越したことはない。90歳を越えた、それも、特に大声を出して大騒ぎをする、ということもない、静かな、ほとんど寝たきりのような状況の方に、睡眠剤が必要とはあまり思えない。そうしたことを、昼の介護者にお話ししても、睡眠剤を飲ませているお嫁さんにはなかなか伝わらない。・・・
 こうした、面倒な状況では、医療者側も次第に投げやりになり、毎回「ああ、今回も変わりないですね、同じお薬を出しておきます」とした方が、時間も労力も節約できる。また、御家族の方もややこしい薬の変更だのされても煩わしいだけ、といったことがありありと窺え、医者の方も、あえて薬を調整しようなどというモチベーションを保つことが難しくなります。「前とおんなじ」ということは、皆にとって喜ばしいことなのです。
 11月から訪問診療を始め、同居しているお嫁さんに初めてお会いできたのは翌年の5月、たまたまお仕事がお休み、とのことで、その日にはいつも来る娘さん達も訪れず、お嫁さんにそれまでの経過や、薬の使い方について色々とお話ししましたが、次回からはまた娘さん達がおられるようになり、お話したことがうまく伝わっているかどうか、は、結局その都度おられる方に再々お話を繰り返すことになってしまいます。月に2回の訪問診療で、こうした話を進めよう、としていくのは、何とも困難なことでした。
 こうした経過の中で、既に書いたとおり、少しずつ食事量が落ちてきたかな、段々に飲み込むのに時間がかかるようになってきたかな、ということには、それぞれ気がついていました。しかし、それもあまりにもゆっくりとした経過で、気がついていてもなかなかどうする、という対応のしにくい問題でした。
 私が伺い始めてから1年を過ぎ、また寒い季節となっていました。12月13日に訪問した際のカルテに、「経管栄養についてお話しする」と書いてあります。この時には、長女の方がおられましたが、昼食を食べさせているときの訪問で、やはり「食が細くなってきた」というお話がありました。1時間近くかけて何とか食べさせている、ということは以前から聞いており、これはもう限界が近いような食事状況ではありました。
 12月27日、この年最後の訪問診療でした。年も押し詰まってお仕事が休みだったのでしょうか、初めて息子さんが同席し、この日は娘さんはおられませんでした。1年以上経って、ようやく初めて同居の息子さんと御挨拶、しかしそれもそこそこに、「だいぶ食べる量も落ちてきており、弱ってきていますね。」と、この半年程の経過を簡単にお話ししました。息子さんはきっちりとした方で、神妙に聞いて、「私は何も世話してやってないもので、みんな妻や姉妹に任せ切りで・・・」と、申し訳なさそうな様子でした。もっとも、この日、末子さんの様子が格別にどうだった、というわけではありません。むしろ息子さんがおられるのがわかってか、「朝ごはん、うまかったよ」と、いつもよりよく喋っておられました。
 年が変わって、1月1日、「痰が絡まって昨夜から食事を摂らない」と、御家族から電話が入りました。私の方も、正直、ついに来たか、という気持ちでした。いつかは来るだろう、でももう少し先かな、というよりは、末子さんは、もうこの正月を迎えられないのでは、と、かなり危ない印象を持っていました。どこがどう、とは言いにくいのですが、やはり、経験から来る勘、としか言えないものです。
 正月の朝、私も初日の出を見に行って戻ったところでした。自宅から車を飛ばして伺うと、この時は、息子さん御夫婦と長女の方がおられました。末子さんはベッドの上でしたが、外見上はお電話で話されていたように痰の絡んだ音も聞こえず、熱もなく、特に苦しそうな様子ではありませんでしたが、しかし、聴診器を当てると、肺の音は悪く、肺炎を疑う状態でした。これもまた、逆に良くない徴候に思われました。肺炎であっても、高齢の方で体力そのものが低下していると、熱も出なかったり、苦しい様子も乏しかったり、ということが往々にしてあります。御家族の話では、食べ物を口に運んでやっても、飲み込まずに吐き出してしまう、とのことで、水分も摂れないのでSOSの電話を寄越した、ということでした。
 確かに、末子さんは元々がぎりぎり乾ききったような状態でしたので、一日でも水分や食事が摂れないとすぐにそれだけでも危ない。それに加えて肺炎も強く疑われる、となれば、もういきなり最終末期と言ってもよいくらいでした。一般的に考えれば、病院に行って検査、入院、治療、という型通りの手順を踏んでよい状態ではありましたが、私は、末子さんについては、後ろ向きに思われるかもしれませんが、もう覚悟を決めてそのままおうちにいるべき状態だろうと思いました。
 その日顔をそろえておられた方々に状態をお話しし、入院についても、なるべくニュートラルに、提案をしました。入院を考えるような状態だとは思うが、年齢・状況から、入院しても良い結果になる可能性がどの程度あるかは何とも言えない、と。御家族の意見はその場ですぐにまとまりそうにはありませんでしたが、長女さんの口から、末子さん御本人に入院について尋ねると、「いやだ」とはっきりおっしゃいました。それで、皆、ちょっと安堵したように、「このままおうちで、できるだけのことをして下さい」という方針となりました。
 点滴と抗生剤の注射をする、という形で、訪問看護師と交替で連日伺うことにしました。1月2日、3日、と、熱は37度代前半、などごく微熱があるかないか程度でしたが、やはり口からの食事は全く摂れず。尿の量も日に日に少なくなっており、全身状態が低下していることがみてとれました。その一方、「おはよう」としっかり微笑んでくれたり、外見上には少しも苦しそうには見えませんでした。1月4日、悩みましたが、薬の効果をみることもあり、これで最後か、と思いながらも採血の検査を行いましたが、やはり肺炎の炎症そのものは、重症とはいえないまでも改善もしていないようでした。
 1月6日、この日初めて、長女・次女・息子夫婦が全て顔を揃え、その他、遠方からの親族も数人おられるところで、あらためて現在の状態と、「老衰」ということの御説明をしました。肺炎ではあろうと思われるが、重症、というところまでは行かず、抗生剤の投与も続けているが、すっきりとはならない。表面的にはむしろ表情もよく苦しそうでもないにも拘らず、口から食べない、本人が受け付けない、という状況は、やはり老衰、というしかない。抗生剤の治療に反応して段々に食べられるようになって行けばよいが、むしろ全身状態は落ちて、尿も出なくなってきている。むしろ、むくみも出てきており、点滴をしてあげることも余計苦しさを増すばかりになりかねない・・・あらためて、入院について問いかけましたが、集まった皆さんの総意として、このまま家で看取って上げたい、ということまではっきり言われました。無理にたくさん食べさせようとしないで、末子さんの好きなものを飲み込めるだけ少しずつ上げてください、とお願いし、この日で点滴も終了としました。
 3日後、1月9日の朝、呼吸が停まった、と連絡が入りました。朝の5時頃から呼吸が荒くなり、熱が40度近くになったかと思ったらさーっと引いて、7時49分、最期に大きな息をついてから、停まったそうです。

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