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​在宅看取りの記録

Ⅰ 老衰

○○和枝さん、享年98歳  「毎日点滴を」

 ○○和枝さんは98歳女性、これまで特に大きな病気はしたことがありませんでした。かかりつけの医者からは血圧の薬だけもらっていました。外に出ることはほとんどありませんでしたが、家の中は自分で歩いており、身の回りのことは自分でできていました。
 70歳台の息子夫婦と同居していましたが、3月初旬から咳をするようになり食欲が無くなったため、かかりつけの医者に診察を受けに行くと、軽い肺炎だ、と言われ、入院をする程ではないが、飲み薬を飲んで、食事が摂れないようであれば毎日点滴に通うように言われました。
 確かに、寝付いてしまうほどのことではなかったのですが、食欲がどうしても出ず、息子さんは1週間程連日和枝さんを医者に連れて行き点滴をしてもらっていました。1週間目に、医者からは、もう肺炎は治っていますから薬は必要ないでしょう、と言われましたが、その後も食事がほとんど摂れないため、点滴をするためにさらに連日医者に通いました。
 さらにそれから1週間程経って3月24日、息子さんが私のところに、その医者からの紹介状を持ってやって来られました。紹介状には血液検査の結果等も添えられていましたが、要は、今の段階ではもう「病気」は治っている、しかし食欲は、それでも数口ずつは食べていたのがどんどん落ちるばかりで、今ではまったく食べなくなっており、点滴を続けて行いたいが、段々に通院も困難になってきているので、私のところで往診をして点滴を続けてやって欲しい、との内容でした。


 98歳の超高齢の方で、水分をあまりたくさん入れることにも危険はあり、点滴は毎日250mlだけ、末梢静脈から行っていたようです。
 紹介状の内容と、息子さんのお話からは、私に依頼されていることが、点滴を自宅で続けること、ということでしたが、このように末梢からの点滴を続けていても、もし口から全然食べられないとしたら、これではとても充分な栄養の代わりにはなりません。段々痩せ細っていくことは避けられず、どのくらいの量を口から食べられていたのかは正確にはわかりませんでしたが、既に2週間以上が経っており、現時点でほぼ全く口からは食べられないのであれば、このまま同じ点滴を続けていても、おそらくもう1週間足らずでお亡くなりになると思います、とお話ししました。
 息子さんはびっくりされ、「こうして点滴を毎日続けていれば、生き続けられると思っていました」とのことでした。
 この時点では、まだ私は息子さんとお会いしたのみで、御本人の診察もしていない状況でしたが、以上のようなことは、紹介状の内容と息子さんのお話からは了解できることでしたので、時間をかけてお話をし、


① 食べられない原因を追究するため、あるいは、本当に食べられないのかもう少し時間をかけて確かめるためにも、どこか病院に入院をお願いして検査、治療をしてもらう。胃ろうの造設、ということも、入院してあわせて考える。


② 今のままの点滴を続けていても体はもたないので、栄養をきちんと入れようと思えば、自宅でも出来る方法としては、鼻か口から管を入れて、流動食を胃に入れる、という方法をやってみる。


③ とにかく今のまま点滴を続ける。


④ このまま点滴をしていても望みはないので、老衰である、ということが納得されたのであれば、点滴もせずに、御自宅で食べさせる努力だけ続けて、看取ってあげる。


という、4つの選択肢を提示しました。

 その翌日、御自宅へ伺い診察をしました。和枝さんは強い難聴のため、かなり大声で話さなければなりませんでしたが、こちらの言っていることはある程度理解して下さっているようで、受け答えははっきりしていましたが、口数は極端に少ない。2週間もほとんど食べていない、ということでしたが、まだ軽く介助してトイレに行ったり、ということはしておられました。特に麻痺があったり、ということではないようでした。息子さん御夫婦が同席しておられ、少し食べ物や水を持ってきてもらいましたが、スプーンにひとさじ食べさせようとしても、口には入れるものの吐き出してしまう。水分も同様で、口にまでは入れるのですが、飲み込みたくないようで、すぐに吐き出してしまいます。
 最初に肺炎と言われたときには咳や痰もあったようですが、この時にはもう咳も痰もみられず、熱もなく、見かけ上は特に悪いところはないようでした。しかし、とにかく「食べられない」。
 「食べられない」ということの原因を何か病気として考えようとすれば、例えば、食道癌であるとか胃癌であるとか、あるいは脳梗塞であるとか、色々検査をすべきことはあります。しかし、前の医者からの紹介状のように、「肺炎の治療をして、それは治って血液検査上も正常になっている」ということで、これ以上他の病気の検査をする、ということでなければ、現状で「食べられない」ということは、「老衰」と言わざるを得ません。
 このように、肺炎にしろ風邪にしろ、高齢の方が、少しの病気であってもそれをきっかけにして「食べられない」という状態になり、食べられないためにいっそう元気がなくなり、さらに食べられない、という悪循環に陥っていくことは、医者としてはよく経験されることです。そして、そうしたことをよく経験している、ということのみを背景にして、それを「老衰」と名づけざるを得ない、それが今のところの「老衰」の考え方になっています。
 仮に、この方が、入院をして詳しい検査をして、例えば胃カメラをやって胃癌が発見された、とします。しかし、今の年齢と体力、これまでの経過、等からすると、胃癌であったとしても手術や抗癌剤治療を行う方がマイナスが大きいであろう、と、医者としては予測されます。従って、仮に胃癌だとしても、何も治療はしない(痛み止めなどは別として、癌に対する根治療法はとりにくい)。とすれば、胃カメラをやる苦痛も、何の意味もない、ということになる。ならば、胃カメラもやらない方がいい。検査などして「何か」がわかる、ということの方が、デメリットが大きい。・・・そう判断されるような年齢、状態がある、それが「老衰」とでも言いましょうか。
 そうは言っても、検査の結果、癌、とまでは言わなくとも、何かもう少し軽症の、治療可能な疾患が見つかるかもしれません。ですから、「徹底的に」寿命を延ばそう、という考え方を採るのであれば、入院をして検査をする、ということは、否定すべきことではない。しかし、その検査も辛いし、今から入院をして環境の違うところに行って、ベッドに縛り付けるのもちょっと・・・と思うようだったら、入院まではしない、「老衰」という言葉を受け入れる。この二者択一の一方として、「老衰」はあります。
 私の実感としても、「老衰」という死亡診断をつけている人の中に、おそらくかなりの数は、仔細に調べればどこかに癌が見つかる方がおられるだろうと思います。しかし実際にはそこまでの検査をしないで亡くなっている方がたくさんいるのだ、ということです。
 あらためて、息子さん夫婦と御本人の前で、昨日息子さんにお示ししたような4つの選択肢をお話ししました。もっとも、御本人はほとんど聞こえてはいなかったろうと思います。既に息子さん夫婦の方は、この一晩考えて下さっていたのでしょうが、お二人の意見は微妙に食い違っていました。
 お二人とも、今から病院へ連れて行って、きつい検査をしたり入院をしたり、ということは望まれませんでした。しかし、奥さんの方は、「②の経管栄養は本人が辛いだろうからそこまではさせたくない、③の点滴を」と言い、息子さんの方は「③の点滴のままではもたないのであれば、②の経管栄養を」との御希望でした。しかし、お二人とも御本人の希望を確認したわけではありませんでした。
 高齢者医療の現場では、どうもこのように、御本人を目の前にしてもなお御本人の意思を確認しようという習慣がないようです。難聴で聞こえない、ということはともかく、まるで小児科で小さな子供のことをお母さんに説明してお母さんに同意を得るのが当たり前なように、御家族が御本人の承諾も得ずに、治療方針を決定してしまう。
 私は、御本人の耳元で、「このまま食べられないでは死んじまうけど、病院には行かないでいいのかい?」と問いかけましたが、和枝さんは首を振るばかり。「それじゃ、食べる代わりに、口から管を入れて流動食を入れてみようと思うけど、いいかい?」と、実際に管を見せて問いかけると、キョトンとしてはいましたが、拒否をする風でもない。そこで、身振り手振りで説明をしながら、管を少しずつ口の中に入れていきましたが、のどの辺りでえづいてしまって手で払いのけるように拒否をされてしまいました。それで、結局息子さんも、経管栄養も難しい、それならやはり今までどおり点滴を、ということとなりました。
 医者の立場からの意見を言います。あくまで、医者としての理屈をこねるのならば、①~④の4つの選択肢の中で、③の末梢血管からの点滴、というのが、一番「意味がない」ことのように思えます。①→④は、まあ言えば、「積極的な治療」の順番、と言っていいかもしれません。もし、少しでも長く、何とかして生きていて欲しい、ということを選ぶのであれば、①入院、か、②経管栄養、を考えるべきでしょう。逆に、④は「消極的」に見えるかもしれませんが、老衰、ということを覚悟して受け入れるのであれば、もっとも積極的、とも言える方法です。御本人の苦痛を考えれば、点滴も含めて何も処置などしてあげずに、好きだったものをあれこれ見繕って、少しずつでも口からあげればよい。それで、時が来れば息が止まる、という、自然な経過をたどる。③の点滴だけが、どっちつかず、腰の定まらない「治療法」です。しかし、御家族の意向としては、それが選ばれてしまうことが多い。
 日本では、末梢血管からの点滴、ということがごく当たり前に行われていて、もちろん非常に有効な場合も多いわけですが、「栄養補給の方法」ということで考えた場合には長期的にはとても十分なものとは言えません。あくまで、ほんの数日を乗り切って、その間に口から食べることがまたできるようになるまでの一時しのぎ、と考えるべきものです。しかし、一般の方にとっては、御自分のことも含めて、こうして点滴を何度か受けたことがある、という経験から、点滴に対してのハードルはごく低くなっており、かつ、点滴をやってもらっていれば良くなる、という幻想があるのでしょう。上のような「医者の理屈」をいくら御説明しても、同じような老衰の状況で点滴を希望される御家族は非常に多く見られます。
 それが「不正解」というつもりはありません。私は、医者としては、理屈の上では、点滴が一番「意味がない」と書きましたが、御家族にとっては、何もしてあげない、ということに耐えられないのでしょう。老衰、ということで覚悟はしているけれど、毎日医者や看護師が来て点滴をしていれば、何か、をしてあげているような気がする。点滴を続けていれば、ある日からまた元気に食べられるようになるかもしれない。・・・こうした場合の点滴は、まさに、御家族のためにやっている、という側面があるように思っています。
 和枝さんの場合にも、結局こうして点滴をすることになりましたが、初日は和枝さんは「なんで家でまで点滴をするんだ」と怒って、我々が帰ったあとに自分で引っこ抜いてしまったそうです。
 しかしそれからも連日点滴に伺ううちに、段々にそんな元気もなくなって、おとなしくされるがままになっていきました。私と訪問看護師で手分けして、土日も含めて連日伺いました。次第に点滴を刺すことも困難となり、両手両足あちこちを探して、失敗を繰り返しながら血管を確保することは、少なくとも我々にとっては苦しいことでした。


 そうして、約10日後、4月5日の朝に、呼吸が止まった、と連絡が入りました。
すりおろした林檎などをほんの数口口にすることはあったようです。御家族にとっては、最期まで点滴をしてもらって、皆親戚達にも会えて良かった、という最期でした。しかし、御本人がそれを望んでいたのかどうか、連日何度も針を刺しに通った私達にとっては疑問はいつも残るのです。

 

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