在宅看取りの記録
Ⅱ 癌の方
訪問診療をしていて、御自宅で亡くなる理由(死因)として一番多いのは、今は「癌」になりました。
病院で癌と診断をされたけれど、高齢のため或いは癌が進行していて治療ができない、今後は病院に通うことも難しくなっていくでしょうし、病院に来ても治療の手立てはない、あとは、訪問診療でお願いします・・・いわゆる終末期医療の現場として御自宅が真っ先に考えられ、告知をされている場合、御本人も御自宅へ帰ることを希望されるケースが多い。一般の急性期病棟では、治療の手立てのなくなった癌の末期の方を最期まで診る、ということはどんどん難しくなっています。
癌の末期をどこで迎えるか、その場所としては、(癌に限ったことではないのですが)ホスピス、という場もあります。終末期を迎えることを専門に行う施設で、人生の最期を安息に満ちたものとできるような様々な取り組みがなされていますが、残念ながらそれ程の数はなく、私共の住む地域では考えられません。
生命を永らえる、ということが、医療の第一義であるかもしれません。しかし、残念ながら生命を永らえるための手立てがもうなく、最期の時が近い、となった場合、その最期のときをできるだけ安楽に、苦痛のないものにする、ということが、次なる医療の意義となります。訪問診療の現場では、こうした終末期医療の考え方、知識が必須のものとなっています。
ここで、何人かの方の経過を挙げていますが、私が訪問を始めてからお亡くなりになるまでの期間は、お一人だけ1年半、という方もいますが、その他は、数ヶ月から数日、最短は5日、と、ほとんど皆さん、短いお付き合いで最期を迎えられました。手の打ちようがない、となってからの紹介となることが多いので、どうしても短期間となってしまいます。その短期間の内に、もっともデリケートな問題にずかずかと踏み込んでいかなければならないのは、私共にとっても辛く難しいことですし、御当人や御家族にとってはいっそうストレスのたまることであろうと思います。
癌の方の多くの場合に共通した問題として、告知の問題があります。癌、ということに関して、或いは、予後、ということに関して、まだ日本では、御当人に告知する、ということが必ずしも一般的にはなっていないようです、高齢者の場合には特に。私自身、医学生であった昔には、「これから日本でも告知が一般的になっていくであろう」と座学では習った覚えがあり、当時は、いかにも告知することが理性的、近代的であるかのように感じたものでした。どうしても、我々は、自国の文化に対して「自虐的」であったのでしょうか。アメリカなどでは、告知をしない、ということは考えられない、とまで言われ、主として告知をしない我が国の現状を恥ずかしいものと刷り込まれたように思います。個人主義、自己責任、自立、そうした言葉が尊ばれてキーワードになっていたようです。
しかし、それから時が過ぎ今に至ってもなお、告知についてはそんなに簡単に割り切れない問題として残ったままです。私が訪問診療をしている限りにおいては、告知をされていない方はたくさんいました。
告知をしない、ということが、何も私の好み、というわけではありません。私は訪問診療をしていますので、告知をするしないは、基本的には病院で検査を受けて、癌の診断をされた時点で考えられていることですので、その病院の担当医の判断、ということになります。土地柄、ということもあるかと思いますが、私の暮らしている所で、少なくとも訪問診療を始めるような状況の方では、告知をされていないことは珍しいことではない、というのが現状なのです。私の所に訪問診療の依頼となった時点では、ですから、告知の問題というのは、済んでいることが望ましいのですが、済んでいないことも多い。勿論場合によっては、私の方から告知をする、ということがあってもいいわけですが、これはかなり難しいことです。
癌の方の訪問診療を始めるに当たっては、私は可能であれば、御本人にお会いする前に、別室やクリニックに来て頂いて、御家族と先にお話をします。本当は、患者さん御本人の診療をするわけですから、まず患者さんとお会いするのが筋というものなのですが、告知の問題が絡んでいる以上は、まず、告知についての御家族の考え方を聞いておかないといけない。御本人は告知をされていないのか、検査結果についてはどのように聞いて、どのように了解しているのか、告知をしてあげなくていいのか、薄々勘付いているのではないのか、御家族にはそうしたことについて質問をしてきたりはしないのか、御本人は今までの生活の中で告知を望んでいたのではないのか、御家族としては御本人は告知されない方が幸せだと思うのか、御家族としては、御自分であったら告知されない方が幸せか、・・・・・・相手の御家族によって質問の仕方や内容は様々ですが、私は、かなり徹底的に「問い詰め」ます。これから私達はおうちに上がり込んで、おそらくは患者さんが亡くなるまで医者としてお付き合いをしなければならない、これから初対面でお会いする人を、御家族と一緒になって、口裏を合わせて、最期まで騙し続けないといけない、そのために、御家族とは充分に連携をとっておかなければならない。・・・・・・こう書いてくるといっそう、綿密な「謀略」をしているような気がしてきます。実際、一番辛いのはこの点です。いくら御本人のため、と言いくるめてみても、所詮私達は平然とした顔で患者さんに嘘をつかなければならない。アメリカなどでは、まず医者は御本人に診断結果をお話しするところから話が始まるわけですから、逆に、御本人のみが自分が癌であることを知っており、「家族は悲しむだろうから、家族には内緒にしたまま」となるケースも多いと聞きます。理屈で言えば、まさに御本人の問題なのだから、家族には内緒にする、という御本人の判断にしたって、誰に責められるものでもない。「筋」は通っている、と言えばそうです。
しかし、告知をしない、ということがそう悪いことばかりではない、とも確かに思うのです。多くの場合、患者さんは、まあ、薄々勘付いていく。或いは、最初から承知しておられる。段々に体力が落ち、寝付くことも増えていって、自分の体が思うようでないことも了解し、家族を問い詰めることにも哀れを感じ、あれこれ考える余裕があるのなら幸せだった遠くを思い、水や味噌汁を飲ませてくれる娘や息子に感謝をし、・・・病名が癌であるとか、検査結果が、予後がどうである、というような専門的な医学的な話など、どうでもいいことなんだ、と、専門家であるはずの私達もそう思うようになっていく。実は「告知」など瑣末な問題なのかもしれない、と、そう思えることも多々あるのです。
ここでは、この告知の問題に結論を出すつもりは毛頭ありません。私自身、これから一生このことについては悩み続けることと思いますし、この先、今の訪問診療の仕事から離れて病院に戻ったり田舎の診療所に行ったり、ということがあれば、その時々の医者としての立場によってもまた考え方が変わらざるを得ないかもしれません。そもそも正解、などないのだろうな、と思います。自分だったらどうしたいか、今のうちから子供達や妻に話しておかないといけないのでしょうが、それだって、土壇場になれば全く意味のないことになるかもしれないのです。
次のコンテンツ→