​在宅看取りの記録

Ⅱ 癌の方

○○嘉子さん、享年91歳「水はおいしい・・・」

 ○○嘉子さんとのお付き合いは、本当に短いものでした。私は4回訪問に伺い、5回目にはもうお看取りとなってしまいました。
 もともとは、近所の開業医の先生に、高血圧、ということで診察をしてもらっていましたが、高齢で歩けなくなってきたので訪問診療を、という紹介状を御家族が持って当院に来られ、訪問診療に伺う予定を立てました。しかし、すぐに「食事があまり食べられない」と御家族より連絡が入り、予定より早く、5月18日に御自宅に伺い、初めて御本人とお会いしました。
 御家族は、御本人と娘さん、孫2人、の四人家族。91歳の嘉子さんは、ベッド上でしたが、受け答えはしっかりしており、「食欲がない、って、娘さんが気にしていますよ」とお尋ねすると、「食べようと思えばいくらでも食べられるんだ、食べたくないだけ、どこも痛くもなんともない」とはっきり答えられ、特に不満そうな様子もなく、ニコニコとしておられたのが印象的でした。すっきりとした贅肉のない体つきで、表情も豊か、とても「理知的な」というか、・・・うーん、なんと言うのだろう、「ニュートラルな」というか、若造にはうかがい知れない、という、自戒の思いを抱いたことを、不思議に良く覚えています。
 娘さんのお話では、1週間ほど前から食事量が落ちており、伺った前日あたりはご飯2口程度、その日は朝から水分だけ、という状態だそうです。トイレに行ったり、自宅内は自分で動けてもおり、診察上も、熱もなく、痛みもなく、明らかな所見はないようでした。それでも高齢の方が食事・水分を取れないと、原因はどうあれ、すぐに脱水を来たし、それによってますます食欲が落ちる、ということは常ですので、その日は採血検査をすると同時に、点滴を500mlゆっくり行いました。
 血液の検査結果は翌日になってしまうのですが、翌日結果を見ると、ごく軽い炎症反応はあり、その他、貧血、栄養低下はあるものの、91歳という年齢を考えると、初回の検査として「著明な異常」といってよいかどうかは何とも言えない程度のものでした。結局、明らかな所見としてはやはりなく、「軽い風邪?」といった程度のことしか言えない。その日も食事はほとんど採れず、3日間限定で、看護師さんに点滴に通ってもらった上で、その後の相談をあらためてする、ということにしました。
 実際、このように、血液検査や診察上明らかなものはない、というケースが一番判断の難しい状況です。医者としては、実は、この時点で、「どこかに癌が隠れているんだろうな」と薄々考えてはいます。癌があっても、一般の血液検査では特に異常を認めないことが多い。しかし、我々が訪問診療で伺うような方々で、癌が見つかったとして、年齢的、ADL的、体力的に、どのような治療が可能なのだろうか、ということを考えると、見つけることのプラスマイナスを計算してしまうことも同時に行ってしまいます。例えば単純に「手術」を行う、ということを考える。そもそも手術が成功するかどうか、ということもありますが、成功したとしても少なくとも2週間以上はベッド上に寝たきりとなり、その間にますます動きは悪くなり、食欲も落ちるだろう、癌は取れたとしても、その後の生活はどのようなものになるか、・・・と考えると、手術をした方が良いのかどうかは、一概には決めかねる。もっともこれは、我々「プロ」の考え方であって、一般論として言えば、「癌は取った方がいい、命が少しでも長くなる方がいい」ということになるでしょう。しかし、高齢者の場合には、癌を取った方が命が長くなるかどうかもはっきりとはしなくなっていきます。寝付いてしまうことによって、かえって早く死を迎える、ということだってありうる。・・・
 こうしたことは、明確な線引きが可能なことではなく、結局一人一人についてその都度判断していかざるを得ない問題ではあります。その方にとって、手術した方が良いのか良くないのか、放射線治療はどうか、抗がん剤治療は・・・。突き詰めてみれば、癌に限らず、全ての医療処置に対して、同じことが言えるでしょう。排尿のためのバルーンカテーテルという管を入れた方がいいかどうか、食事が取れないときに鼻からの管を入れて流動食を入れた方がいいかどうか、等々。これらの医療処置は、基本的には、「若くて」「元気な」方で、治療をすることによって「回復」が期待でき、元通りに近い状態での寿命が期待できる方にとっては、問うまでもなく行われるものでした。しかし、通院も困難だ、といって紹介になってきた訪問診療の現場での(主に)高齢者にとっては、一つ一つが判断を要するものとなります。
 さらに突き詰めていくと、癌である、ということを、「知る」ことも、どの程度重要なことなのか、が難しくなってきます。「知る」ためには、様々な検査を行うことになります。胃カメラ、大腸カメラ、をはじめとするきつい検査もありますし、超音波のようにそれ程きつくはない検査もあります。最近では、CTやMRIの精確度が飛躍的に向上しており、苦痛のない検査が増えてきていることも事実です。しかし検査は所詮検査であり、「限度」があることもまた事実です。我々は、今使える検査が捕らえうる以上のものは要求できませんし、そのことには地域的な差や、金額的な制約があることも踏まえる必要があります。この土地で、比較的簡便に受けられる検査まで受けて、それで何も出なければそこまでにするのか、さらに詳しい検査をするのか、何もない、ということを確認するために、どこまでのことをするのか・・・
 嘉子さんの場合、そのあと連日在宅で点滴を行いましたが、結局食欲は改善せず、御家族と以上のようなことを相談した結果、5月23日に、「食欲不振の原因検索」ということで、病院に入院をお願いすることになりました。
 検査としては、胃カメラであっさりと、胃癌が見つかりました。かなり進行しており、手術は年齢的にもどうか・・・ということで、それ以上、転移等の検査まではしていない、肉眼的(胃カメラでの)に悪性であることが明らかな状態、ということでした。病院側から娘さんにその旨お話され、私の方で6月9日に病院にお伺いし、娘さんと、入院中の主治医と私とで、今後の方向につき相談をしたところ、娘さんは、おうちで看取りたい、という御希望となり、6月13日に御自宅へ退院、再度、我々の方で訪問診療・訪問看護を続ける、ということになりました。
 退院翌日の6月14日、早速御自宅へ伺いました。御本人は思ったよりも弱った様子もなく、「水飲みたい、痛いところはない」とおっしゃり、娘さんが吸い飲みに用意した水をおいしそうに飲んでいました。日本の常として、こうした場合に、御本人に告知をするケースは、必ずしも一般的ではありません。都会の大きな病院で、本人に告知をすることが「当たり前」になっている、ということもよく聞きますし、欧米に倣って、医学教育の中でも告知が勧められる流れになってきていることも理解はできますし、また、自分としても、本人に黙ったままであることの矛盾を感じることもしばしばなのですが、現実に、嘉子さんのようなケースでは、本人には告知しないまま、御家族の判断に沿ってしまうことの方が多いのです。これもまた、繰り返し述べているように、そのケースそのケースで一人ずつ判断すべきことなのだろうと思います。無条件に全員に告知する、ということもためらわれますし、その逆も抵抗があります。医療があくまで個々人と向き合うものである以上は、一人一人を見定めて、状況を勘案して、判断に時間をかけることもやむなし、と思っています。
 嘉子さんの場合、言い訳に聞こえるかもしれませんが、御本人も、もうわかっていたのだろうな、と思います。言葉にしなくても、薄々感じてはおり、それを曖昧なままにしておく、ということ、これもすこぶる日本的なやり方なのかもしれません。入院をして、胃カメラまで飲んで、その他色々な検査をして、本人には何も結果を教えない、という時点で、本人としてももう「追求はしない」。少なくとも、入院・検査をして「知る」ということには、そうした意味はあったのかもしれません。また、直接的には、若い御家族が、状況を「納得」する、という意味。
 2-3口水を飲むと、我々の見ている前で、そのまま嘉子さんは眠りにつきました。見掛けよりも実際には衰弱しているのだろう、と思われました。
 この先は、いわゆる「ターミナルケア」、痛みなどの苦痛を去る、ということを最優先とし、本人からの希望がなければ、水分がとれなくても、特に点滴をしたり、ということはしない、ということで、娘さんも了解しており、発熱の際の解熱剤のみ処方しました。
 訪問看護は頻繁に伺いながら、次回、6月20日に診療に伺いました。娘さんの話では、その後、全く苦痛はなく、昼も夜もなく、うとうととした状態で、少しずつ水を要求しただけ上げている、ということでした。少しでも栄養のあるものを、と、娘さんは果物のジュースや、流動食、その他、お茶や味噌汁など、色々なものを出してあげたそうですが、ミネラルウォーターだけが飲み込め、その他のものは吐気もあって一切飲み込めないのだそうです。そういうものなのだろうな、としか言いようがありませんでした。いずれにしろ、表情からは苦痛は全く認められず、投薬の必要は全くありませんでした。
 6月26日、深夜2時ごろ、訪問看護師に、「呼吸が苦しそう」と連絡が入り、看護師が訪問。既に末期の呼吸状態であることを説明し、娘さんも了解。その後、5時40分に、呼吸が停まった旨、再度連絡が入りました。私の自宅からは、バイパスでほぼ直行でき、看護師よりも早く到着しましたが、それでも6時10分になりました。一度も眉間に皺を寄せることのない、安らかな寝顔でした。

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