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​在宅看取りの記録

Ⅱ 癌の方

○○隆之さん、享年68歳「別の女のところにいたのよ」

 ○○隆之さんは、まだ68歳と比較的お若い方でしたが、肝臓癌が脊椎に転移し、下半身が全く動かない状態で病院から退院、御自宅で亡くなることを考えて、私どものところに訪問診療・訪問看護の依頼となりました。もっとも、御本人は認知症が進んでおり、状況の理解はできていない、ということで、奥様の方の御希望、という形でしたが。
 肝臓癌に対しては、約1年前に発見され、治療を行ってきていましたが、転移が進み、これ以上の打つ手がない、ということで、6月12日に退院となりました。この時点で、病院の担当医からは、脊椎の胸の辺りへの転移のために、それより下の部位の運動も感覚もなく、その他、胸骨・肋骨・肩甲骨・腸骨(腰骨)・仙骨などにも転移があり、要は、対幹部のほとんどの骨に転移している、という報告でした。骨に癌の転移があると、骨自体はもろくなりますから動きや加重に対して折れやすくもなり、痛みもかなり強く出る。そのため、強い痛み止めである麻薬を使用された状態で退院となっています。
 私達は、退院の翌日、6月13日に御自宅に初回訪問しました。御自宅は、マンションの10階、当地ではなかなかこれ程高いマンションは珍しく、東西南北見晴らしが最高で、隆之さんは奥のサッシに沿ったベッドに横になっておられましたが、サッシを全開にして玄関も開け放つと、気持ちよい風が通り、クーラーも全く必要ない涼しい居心地のいいお部屋でした。奥様と二人暮しで、奥様の話だと、「最初に倒れたときには別の女のところにいた」らしいのですが、その後「復縁」された、とのことで、「最後は私がみてあげるしかないのよ」とおっしゃっていたことを覚えていますが、私の立場では、それ以上深く突っ込んではお聞きしていません。訪問看護師さんは、女同士、徐々にそうしたことの深い内容も聞いていたようですが、私の耳にまではなかなか届きませんでした。
 隆之さんは、確かに下半身は全く動かず、しかし、足をつねると顔をしかめておられ、痛みの感覚は少なくとも残っているようでした。もともとの癌の部位である肝臓(右腹)のあたりを圧迫するとやはり顔をしかめていましたが、何もしないでいる分には特に痛みはない様子、しかし、骨への転移ですので、ベッドを起こしたり、体を横に向けたり、といった動きの際にはやはり顔をしかめていました。
 「顔をしかめて」、とばかり書きましたが、隆之さんはほとんど口を開くことはなかったように覚えています。私が伺うと、ベッドの上で大概いつも眉間に皺を寄せて目を閉じておられました。我々が患者さんの痛みの程度を判断する場合、こうした表情を大きな参考にする場合が多く、それからすると、隆之さんは何だかいつも辛そうにも見えたのですが、声をかけると目を開いてにっこりと微笑まれる。その笑顔はまた、全然、「痛み」を持っている方の表情ではなかったように見えました。しかし、口を開いて言葉を発する、ということはほとんどありませんでした。少し、「あー」とか、「いてー」というような声を出すことはあったかもしれませんが、私の記憶には喋っている隆之さんは全く残っていません。奥様に伺うと、「この人はいつでも眉間に皺よせて難しい顔しているのよ」と笑っておっしゃっており、本当のところ、隆之さんが痛がっていたのかどうなのか、最期までわかりませんでした。もっとも、上に書いたとおり、おなかを押さえたり体を動かしたりしたときの顔のしかめ方は確かに、目を閉じているときの眉間に皺を寄せている表情とは違うもので、少なくともじっとしているときの普段は、痛みはなかったのだろうな、と思います。
 それでも、奥様に、我々が伺っていないときの様子を聞きながら、徐々に麻薬の痛み止めの量は増えていきました。余程痛いときに頓服的に使う麻薬の水薬もお出ししていましたが、それを使う回数も徐々に増えていきました。在宅では、こうした薬を使う使い方も御家族に判断を預けることになりますが、そうすると、痛みの判断はいっそう難しくなってきます。癌の進行に伴って段々衰弱もしていく。例えば、夜に、顔をしかめて眠らないでいると、そばで二人きりで見ている妻としては、何かをしてあげたくて、痛み止めを飲ませる。食事を食べさせようとしても食べてくれずにため息をついていると、痛いためではないか、と痛み止めを飲ませる。等々、「痛み止め」に対する敷居がどんどん低くなっていってしまう。
 今の、特に癌のターミナルケアの現場では、もとの癌に対する治療というのがこれ以上できなくて、最期のときを迎えるにあたっては、とにかく患者さんの苦痛を去ることを最優先にする、ということが重要視されますから、こうした麻薬の痛み止めも、惜しむことなくどんどん使うことが勧められる傾向にあります。しかしこうしたことというのは常に両面を持つのであって、どんな薬にしても、決して使い過ぎてよい、ということはない。当然のことですが、「適切な量」であることが本来は一番良い。従来、癌の末期の方の対応というのが専門的に行われることが少なかった時代には、医者の中でも、麻薬を使うと中毒になるというようなことを考える人もあり、麻薬は手控えて使われる傾向がありました。そういう経緯もあって、今はどんどん使う、ということが宣伝されているきらいもあります。「足りなくて痛みが出る」くらいなら、「多すぎる」くらいの方がいい、というのは、まあもっともなことだとも思いますが、理想的にはあくまで、適正量が望ましい、とは思います。このあたりの調節が、在宅で御家族が介護をしていると、なかなか難しいところではあります。
 もともと隆之さんは、退院時には、麻薬の貼り薬の最小量だけで良かったくらいで、ご自宅へ帰られてからむしろ安定しておられるように見えましたが、食事量も徐々に少なくなり、7月7日から10日までショートステイに一度出かけたことを契機に床ずれもできてしまい、等々、全身状態もやはり少しずつおちていくにつれ、麻薬の量は増えていきました。貼り薬の量を2倍とし、頓服の使用回数が増えてきたために、8月に入るとさらに定時の飲み薬の麻薬を追加しました。
 奥様は、当初より、御自分の母親の新盆なので、隆之さんにはお盆過ぎまでは生きていて欲しい、でも、新盆の時には隆之さんにはショートステイに行っていてもらうことにしたい、というお考えでした。しかし、7月に一度行ったショートステイで隆之さんがかなり疲れた様子で、しかも床ずれもできてしまい、8月に入った頃には麻薬の量も増え、食事量もかなり落ちてきていたので、結局、8月のショートステイは中止とすることになりました。母親の新盆は、隆之さんをヘルパーさんに頼みながら、日中に出かけて済まされたようです。
 飲み薬の麻薬を開始したこの頃から、また目に見えてやせ細って行った様に思い出します。逆におなかは膨らみ初め、腹水が溜まっているのだろうと思われましたが、相変わらず御本人は我々が伺ったときには、苦痛なような表情は特に見せませんでした。それでも奥様は、二人きりになった夜には時に頓服の痛み止めを飲ませることもあり、そうした奥様の話を聞きながら、飲み薬の量も少し増やしたり、ということも続きました。8月の後半になると、食事はもうお粥などは食べられなくなり、ゼリーや果物など、のど越し・口当たりの良いものを、奥様があれこれと工夫して食べさせてあげていましたが、もうとても十分な量とは言えない程度でした。
 残暑の一番厳しい頃でしたが、どうもいつ伺っても、マンションの10階、ベッド脇の窓から玄関に向けて風の通った涼しいおうちだったように思い出します。9月の上旬になると、もう尿量も一日200mlくらいのこともあり、いよいよ死期が近いことを思わせました。我々が伺うと、少し目を開いて微笑んでは下さるもののすぐに目を閉じてしまう。衰弱はかなり進んでいました。それでも、私達は聞いたことがないのですが、夜に「あいこー」と名前を呼んでくれた、と、奥様が嬉しそうに話してくれました。
 もうほとんど食べられない、飲めない、という状態でしたが、奥様とも十分お話しを繰り返してきており、点滴をすることはせずにいました。もう錠剤もほとんど飲めない状態でしたので、痛そうな様子が見えると奥様は頓服の水薬をすぐに使うようになっていましたが、それもやむなしと思われました。腹水は、ありそうでしたが、どんどんたまる、という風でもなく、もっとも、たまるほど水分を飲んでいるとも思えませんでした。通常、尿の量が一日200mlくらいまで減ってくると、もう数日でお亡くなりになることを我々は覚悟し、奥様にもそうお話ししていましたが、またその翌日には、尿量が少し増えて、少し目を開ける時間も長くなったりなどして、おそらく奥様が必死にあれこれ食べさせてくれているのだろう、と思われました。この頃には、スイカが一番食べやすいようで、他の水分などもなかなか飲み込みにくくなっていましたが、小さく切ったスイカはしっかりかみ締めて食べていました。
 訪問看護師は、この頃からほぼ連日のように伺っていましたが、医者の方にまで呼び出しがかかることもほとんどなく、看護師と奥様の間で、ある程度の不安の解消もできていたのかと思います。私は、ほぼ一週間に一度の予定通りの訪問を繰り返していました。女同士、というのはこういうときには本当に頼りになります。こうした状況では私も訪問の際にかなり時間を割くようにはしていますが、それでも、どうしても医者としての状況の説明やら処置やらといったことが中心となり、なかなか奥様の不安を受け止めてあげたり、おしゃべりがてらに受け答えをしたり、といったことがどうにも難しい。難しい、と言っていても仕方ないのですが、やはり苦手は苦手です。男、女の話ではないのでしょうが、どうしても、男で医者、というと、理詰めな話に偏りがちです。
 むしろ、私は隆之さんの様子を見ていると、男同士、何だか話にはならないのですが、感じ入るところがありました。隆之さんは、私の前では喋る、ということはまずない、と言ってよいくらいでしたが、お訪ねしたときには必ず一度は目を開いて「おお、きたか」というように、口を「オー」の字に開きにっこりとします。肝臓癌が進展している状態では、「肝性脳症」と言って、睡眠のリズムが狂ったり、いわゆる見当識障害が起こったり、ということが見られます。隆之さんは、もともと「認知症が進んで、状況の理解ができなくて」と奥様のお話でしたが、いったいどこまでが認知症で、どこまでが肝性脳症で、どこまでは理解ができているのか、お話をしてくれないので全くわかりようもありませんでしたが、あのにっこりとした表情は、何だか全て承知しているのではないか、と思わせるものでした。
 当初、奥様がおっしゃっていた、「最初に倒れたときには別の女のところにいた」ということが、どうにも私にも引っかかっていました。奥様に対する申し訳なさやら照れくささやらで、喋れない振りをしているんじゃないのかな、と、なんとなく、そんなことも思われたのです。不謹慎ですが。
 9月19日、もうお粥も全く食べられない、ラジウム卵を1-2口ずつ上げている程度、との奥様の話。もうお訪ねしても目も開けてくれず、呼吸も休みがちで、10-20秒も停まっているような状態でした。9月23日には、「いつもと様子が違う」と奥様より連絡があり往診。「さっきまで唸り声を上げてきつそうにしていた」とのことでしたが、訪問した際にはもう落ち着いており、穏やかな表情でした。奥様の話では、その日の朝は、好物の「ウニ缶」をなめた、とのことで、我々が考えているよりは、奥様はまだまだ結構食べさせて下さっていたのかもしれません。でも、尿量はもう一日あたり100ml程度となっていました。
 翌9月24日の夕方には、「呼吸状態が下がった」との連絡で往診。もう呼びかけてもつねっても反応はほとんどなく、眼球も上転してしまっていましたが、まだ息はしっかりしていました。呼吸状態が下がった、というのも、どうやら、がくん、と下がったわけではなく、いよいよ奥様も、どうしてあげたらいいのかわからず、夜を迎える前にもう一度私に診ておいて欲しかった、ということだったようです。
 9月19日以降は、痛み止めの麻薬も使っていませんでした。これは、奥様も納得してのことで、この頃には本当に、苦痛の表情はなかったのです。少し唸ったりすることはあったのですが、奥様が胸をさすってあげると穏やかになり、痛み、というよりは、隆之さんも不安だったのでしょう。もうしてあげられることは皆したのですから、それまでと同じように、そばで見守ってあげて、さすってあげて下さい、でも奥さんも、一晩中起きていることはないですよ、孝久さんも安心できないから、奥さんも眠っていいんですよ、とお話ししました。
 その次の日、9月25日には、何も連絡がありませんでした。さすがにいよいよもう一日二日でお亡くなりになるものと私は思っていましたが、何も連絡を頂けないと言うのも、こちらの方も不安で、いつもであれば、いよいよ危ないようなときには連絡がなくても自分の方から様子を見に伺ってしまうのですが、しかし、奥様の不安が落ち着いて、二人だけの時間を持っているのであれば、邪魔をするのもためらわれて伺わずに過ごしました。
 その翌朝、4時半に、呼吸が停まった、と、連絡が入り、急いで駆けつけました。奥様の話では、夕べは息子が来たせいか、意識が少しはっきりして、一緒にビールも少しなめた、深夜、少し奥様がウトウトしてしまい、目を覚ましたら息が停まっていた、・・・・・・とのことでした。
 最期の最期まで、何だかちょっといたずらっぽいような、穏やかな表情のまま、隆之さんは逝かれました。

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