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​在宅看取りの記録

Ⅱ 癌の方

○○力也さん 享年82歳「ずっと片思い」

 ○○力也さんは、癌の患者さんでしたが、約1年半と長いお付き合いとなり、忘れられない方です。
 年も押し詰まってから、入院していた先の病院からファックスで紹介状が届き、退院直後の12月26日に、力也さんのお宅へ伺いました。力也さんは奥様と二人暮らし、それに小さな室内犬のスピッツが奥様の膝の上に座っていました。御自宅は、てっぺんに高校の立っている小さな旧城山のふもとの閑静な住宅街にありました。玄関を入ると、すぐ右側に力也さんの寝室があり、ベッドとその脇に在宅酸素がしつらえてありました。左手に広い居間兼食堂があり、最初の頃は、大概力也さんは、寝室の在宅酸素から長いチューブを伸ばして居間のソファーに座っておられました。紹介状によれば、その年の7月に肺癌が見つかり、10月に入院して放射線療法を行い、入院中に転倒して左足の骨折をしたのでその手術をし、ようやく12月末になって退院をした、今後、在宅での訪問診療を希望しているのでよろしく、とのことでした。
 力也さんは、その時点で80歳でしたが、年齢よりはお若い印象で、少し耳は遠いようでしたが、はっきりと御自分の状態について説明して下さり、癌のための治療を済ませてきた、ということも承知しておられました。奥様も一緒におられたのですが、奥様には口を挟ませず、全て御自分で説明をされ、薬の管理も御自分でされている。私が、在宅訪問診療の現場で、寝たきりでコミュニケーションも充分にとれない様な方を多くみている為か、失礼ながら、80歳というのはこんなにしっかりしておられるのか、とちょっとびっくりした覚えがあります。
 告知をはっきりされている、ということも、この年齢の方としては、私自身にとってはむしろ珍しいことでした。癌に対してどのような治療をされ、予後についてどう説明をされているか、などのことを御本人の口からお聞きすることはあまりないのです。
 御夫妻からお話を伺った後、足の骨折の手術後、ということで、少し家の中を歩いてもらいましたが、平らな所を歩く分には全く問題はなく、玄関の出入りや、床に座った状態から立ち上がることがやや困難でしたが、少しの工夫をお教えしたり、手すりをつけるようにお話したり、ということで解決できる程度のもので、屋内の生活についてはほとんど問題がないようでした。在宅酸素についても、紹介状によると、入院中、夜間に検査上血液中の酸素濃度が少し下がることがあるようで、肺癌、という病名でもあり、大事をとって入れることにしたようですが、訪問診療の際には、呼吸が苦しいようなこともなく、検査上も数値が低いこともなく、少なくとも日中は在宅酸素を使う必要はないものと思われました。
 私の悪い癖かもしれませんが、在宅訪問診療を行う上で、まずこうして、「動き具合」を注意してみてしまいます。それは、訪問診療を行う必要性、とか、訪問診療をすることによって、その方にどういうメリットがあるのか、ということを考えるためでもあります。はっきり言えば、そもそもこうして屋内での生活が自立している方であれば、訪問診療の必要性はないと言ってもいい。訪問診療を始めるに当たっての条件としては、「通院が困難」ということが最優先であろうと思います。勿論、例外的に考えねばならない事情は個々にあり、全てがこの原則に沿う、とは限りませんが、「通院できる方は通院すべきである」、という考えは基本です。逆に言えば、いわゆる「社会的」事情ではありますが、屋内の生活が自立していたとしても、90歳、一人暮らし、で、バス停まで一人で行くことが難しい、とか、毎回タクシーを呼ぶことが経済的にも困難、というような方であれば、病気の程度に関わらず、訪問診療もやむを得ないのかな、と思っています。一ヶ月に一回でも、別に住んでいる御家族など通院に付き添って下さればいいのですが、それも叶わない、という方はやはりおられるのです。
 私自身も、病院でも長く働いていましたので、訪問診療、というのはつくづく「不確かな」診療だと思っています。これは決して、自分のやっていることを卑下して言うわけではなく、勿論訪問診療にはその素晴らしさもあることを承知していますし、専門性としてみても、病院の医師ではとてもできないようなことまでやっている自負もあります。ただ、病院、或いは医院と比べてどうしようもないのは、「検査」ができない、ということがやはり一番大きい。血液検査は、血液を採っていけばできますが、レントゲンやらCT、MRIといった画像検査、その他、設備を使うような検査は決定的にできません。しかし、今日的に見れば、日本の医療が世界に誇れることの代表は、この検査体制の整備なのです。(若干の皮肉をこめた言い方になりますが)世界中のどの国よりもたくさんCTの器械を持ちまた、たくさんの検査を行っているのは、日本なのです。これまた皮肉を込めて、ですが、一般の素人の方々からすれば、「医者」に対して希望することは、おそらく、検査をしてくれることと、薬をくれること、でしょう。「診察」などしてくれなくてもいい、検査をして薬だけくれればいい、と思って病院に来る方はたくさんおられる。勿論、全ての方がそうだ、とは言いませんが、そう思っている方が非常に多い、ということは身にしみて感じています。
 皮肉を外して言えば、私自身医者の端くれとして、患者さんの状態に応じて、検査をしたい、検査をして詳しい状態を知りたい、と思うことは多々あり、そうした時に思うように検査をできない、というのはやはりジレンマではあります。頼れるものは聴診器と、素手での診断能力、ですが、当然ながら、現代日本の現状においては、それだけでは不安でいっぱいです。訪問診療が「不確か」だ、というのは、検査機器と比較をして、これだけ不安である、ということの表現です。ですから極端な言い方をすれば、訪問診療をしている方、というのは、「もう何があっても病院に連れて行く、ということはしない」「検査ができなくても仕方がない」と覚悟を決めているような状況の方、が望ましい。すなわち、癌の末期で、(少なくとも)癌についてこれ以上検査をしたりしても手の施しようがない、という方であったり、超高齢で寝たきりで、病院へ連れて行く大変さ、リスクの方があまりにも大きい、という方であったり。
 そうした点から見ると、力也さんは、十分に動け、通院することができない、という状態ではないように思われました。しかし、癌の方、というのは、住み慣れたおうちで亡くなる、というところまでを考えるのであれば、訪問診療を開始しておく、という考え方もある。その辺りの、御本人や御家族のお考え、というのはデリケートな部分ですので、とりあえずここではいったん訪問診療を開始して、しばらくお付き合いをする中で徐々に希望を確認していく、ということにしました。
 癌、と言って、特別扱いするように聞こえるかもしれませんが、我々にとっては病名が問題なわけではなく、治療の手立てがあるのかどうか、今現在の状態がどのくらい悪いのか、が問題なのであって、他の病気と格別の違いはありません。力也さんの場合、癌の診療をした病院の担当医のところに私自身訪ね、画像検査なども見せて頂きましたが、放射線療法によって癌はかなり縮小してほとんど見えなくなっており、「肺癌」としての、例えば、呼吸が苦しいとか、というような症状は特別にないであろう、ということ、また、今後再発をしたり転移がわかったりしても、年齢的に?体力的に、これ以上の治療は行えないであろう、というのが、担当医の見解でした。在宅酸素を入れたり、呼吸が苦しそうなことがあったり、というのは、もともとあった肺気腫という慢性的な病気のためで、癌とは関係がない、ということでした。すると要するに、我々としては、癌のことは全く考える必要がない、ということです。乱暴な言い方になりますが、ひとまず症状の出現は気にしなくて良く、また、再発しても治療はできない、とすると、御本人にとっても、日常生活上、癌の存在に怯えて暮らすより、そのことを忘れてしまった方が良い。・・・これが、医者としての立場で考えるところです。しかし、実際に自分の身に癌が起こってみればそうもいかない、というのも事実です。
 力也さんは、訪問する度にどんどん動けるようになり、それにつれて色々な問題も顕れて来、診療に対する要望も増していきました。具体的には省きますが、皮膚科的な問題や、もともと白内障があり手術を勧められていたこと、糖尿病、そして、肺癌についての進行具合、等、それまで受診していた様々な診療科についての問題が少しずつ彼にとって再びのしかかってきたのです。癌である、と告げられ、骨折もし歩けなくなって、一時は、退院できるだけで幸せ、と思っていたかもしれませんが、段々に動けるようになり、日常生活がスムーズに運べるようになってくれば、やはり色々な不都合が鼻についてくる。これが人間の常というものでしょう。特に白内障については、以前から困っていたことでもあり、新聞を読んだり本を読んだり、ということがかなり困難で、「命が永らえるのであれば手術をしたい」というのが御本人の希望でした。こうして、眼科や皮膚科に少しずつ通うようになり、そのうち、背中の痛みを感じたときに(筋痛だったのですが)、肺癌と関係があるのでは、と気にかかり、結局もとの病院で検査を受けた方が、ということとなり・・・というわけで、訪問診療を行っている意味というのが甚だ薄くなっていきました。
 こうした経過というのは、我々にとっては望ましいことです。患者さんが自分の手を離れることが淋しい、ということはともかく、御本人が希望する所で希望するような診療を受けること、それ程までに(少なくとも動作的に)回復した、ということは、素直に喜ばしいことです。訪問診療、という仕事が、どちらかと言うと、回復して終了する、ということの期待の持てないことが多い仕事だけに、力也さんのような経過は我々にとっては嬉しいものでした。
 初めて伺ってから約半年、6月の下旬に、御本人も奥様も了解の上、もとの病院に紹介状を書き、皮膚科・眼科・整形外科等への相談や、定期的な胸部の検査等含めて、外来通院してもらうこととしました。これでいったん、医者としてのお付き合いは終了、となったわけですが、そうは言っても力也さんは、小さくなったとは言え肺癌が残ったままの方で、どうしても医者というのは悪いことから先に考える習慣があり、いずれまた、癌が進行してお亡くなりになるときには自分が訪問することになるのだろうな、と、悲しい予想ばかりをしてしまうのでした。
 カルテには残っていませんが、そのあとも、他の方のお宅に行くときのついでに、2‐3度力也さんのお宅に寄ったことがあります。1度は、居間にいる御本人とちょっとお話をしましたが、その他は、御本人が外出中で奥様とだけお話をしました。お元気そうで、出歩いているのだなあ、と、ほっとしたことを覚えています。
 しかし、最期は予想通り、となりました。その翌年の2月、肺炎で入院をし、その際に右足の付け根のリンパ節が腫れているのに気づき、検査したところ、癌の転移だ、とわかった、とのことで、3月3日に御自宅へ退院されてから、再び訪問診療を開始することになったのです。3月9日に、退院後初めて伺った際には、もう頬はこけげっそりとされており、尿をとるための管も入ったまま、ベッドの上での再会となりました。
 「お久しぶりです。入院お疲れ様でしたね。」と声をかけると、笑顔は見せて下さいましたが、かすれたような力のない声で、「またお世話になります」と返されました。
 結局のところ、医者、といっても、突き詰めたところでは特別な検査結果や診察よりも、印象、が物を言います。残念ながら、このときの力也さんは前回の退院時、前回の訪問診療の開始時とは全く印象が違い、ああ、癌末期なのだなあ、と一目でみてとれるような状態でした。普段でしたら、まず私は、患者さんをベッドから起こしてみたり、歩いてもらったり、ということをするわけですが、そういったことは不要に思えました。
 別室で、奥様と、東京で暮らしている娘さんとお話をしました。娘さんは、入退院のような節目のときや、その他でも月に一回くらいは様子を見に来られているようで、それまでにも何度かお会いしたことがありました。
 既に、病院の担当医からも癌の転移のことは勿論聞いていた筈なわけですが、私の方からあらためて、もう以前と比べてげっそりと痩せ、今から起きたり歩いたり、ということが勧めにくい状態であること、そして、はっきりと、そうは長くない印象である、とまでお話ししました。おそらくこれから先は、徐々に食事が少なくなり、徐々に痩せ、動けなくなり、介護、ということが段々に増えていってお亡くなりになる。もう1年以上のお付き合いになっており、以前の状態も知った上で、のお話として、奥様も娘さんも受け入れて下さいました。おそらく、私が言うまでもなく、御本人の様子を見れば、うなずくしかなかったのだろうと思います。
 奥様は、妙にあっけらかんとした様子で、「私はとても介護はできません。有料老人ホームにお願いできないでしょうか。」という御希望でした。娘さんは、本人が帰りたいと言って家に帰って来たのに、老人ホームに入れる、などは反対だ、という意見でした。夫婦の間の機微というのは窺い知れないものですが、決して夫婦仲が悪い、というようなことではなく、本当に奥様は、「介護」ということに不得手な方だったろうと思います。御主人とそう離れてはいない、おそらくは80歳近かったと思いますが、原付バイクで颯爽と街中を闊歩しているのをしばしば見かけました。いつでもスピッツを膝に抱いて、家の中にはコーヒーの香りが漂って、とても優雅な印象の方で、それに比べて力也さんはむしろせわしなく、薬の管理なども細かい字できっちりと区分けをしているような方で、家事なども力也さんの方が主となっておられたのではなかったかと思います。それが御夫婦の長年のやり方、過ごし方であった、ということで、こうした時の意見や判断で、「夫婦仲」などというものを量るわけにはいかないでしょう。自分と一緒に暮らすよりも、有料老人ホームでプロに介護をしてもらった方が、力也さんにとって幸せだろう、と奥様は考えただけだったのだろうと思います。
 奥様がちょっと席を外したときに、「父は母にずっと片思いなんですよ」と、娘さんが笑いながら言われました。娘の立場からすると、やはり母親の態度は冷たく映ったのかもしれません。しかし逆に言うと、昔からずっと、この御夫婦の関係というのは、このように、奥様が自由に優雅に過ごし、御主人がそれをサポートする、という形で成り立っており、それを娘さんなりに表現した、ということに過ぎなかったのかもしれません。いずれにしろこれもまた、よその家族のことは窺い知れません。娘さんは、老人ホームに入れるくらいなら、東京の自分の家に連れて行って、自分が介護をする、とまでおっしゃいました。しかし、これについても奥様は、嫁に出した娘の家に預かってもらうなんてみっともない!と、大反対でした。
 問題は、ここでもまた、御本人がどこまで承知をして、どこまで覚悟をしているのか、という、告知の問題であるように、私には思えました。力也さんは、もともとは肺癌であることを承知して、放射線治療も受けて、そのあとの検査まで希望されて、と、御自分で全て納得してここまでの治療を受けてこられた方です。しかし、ことここに及んで、右足の付け根のリンパ節に転移している、ということは、本人には伏せてある、という。病院の担当医からの紹介状にもそう書いてありました。しかし、御家族から状況を聞くと、足の付け根が腫れている、ということを医者に申告したのも御自分であったそうですし、その後針を刺して組織をとって検査をした、とのことでしたので、普通に考えると、力也さんが何も知らない、勘付いてないとも思えない。しかし、担当医からは、結果についてはぼかした言い方しかしていない、ということなのです。
 私は、もし今後、老人ホームに入所するなり、娘さんの家に行くなり、といったことまで考えるのであれば、尚更、御本人にはっきり、転移が見つかった、ということ、さらには、おそらく予後もそう長くはない、ということまでも告げ、御本人に、どこで最期のときを迎えたいのか、ということを確認した方がいいのでは、とお話ししました。これは、私自身の価値観に過ぎないのかもしれない。しかし、娘さんの家で今後看取りまで過ごすことまで考えるかどうかはともかく、娘さんの家を訪ねたり、或いは、懐かしい旅行先を訪ねたり、といったことだって、もし御本人が希望するのであれば、今、なるべく早い時点でしかできない。今後どんどん状態は悪化していくことが予想されるので、限られた時間をどう使いたいのか、やはり、御本人の希望を尊重する形にして上げたい。・・・全ての方に、告知をすべき、ということまで言う気はありませんが、これまでの力也さんの治療の経過、御本人の性格、振る舞い、といったことからは、そうしてあげた方が望ましいのではないか、と、「私」には思えた。ここまで皆御自分で判断して決定して過ごしてきたのに、最期の最期に来て何も知らされずに死を迎える、というのは、「私」には耐えられそうにないように思えた。・・・
 その日は、そこまでのお話で御家族に預け、1週間後に次回お訪ねするときまでに結論を出してもらうようにしました。結果、やはり御本人にははっきりと転移については言わない、御本人の意思を推測して、老人ホームや娘さんの家でなく、やはり御自宅で最期まで過ごさせてあげる、ということになりました。娘さんは、「父はそんなに強い人ではない、本当のことを皆喋ってしまったら、やっぱりがっくりしてしまうだろうから、言えません」と、それが御家族の総意、ということでした。
 それからの診療については、医者としては、情けないですが、辛い思い出しかありません。毎度思うことですが、告知をしない、という結論はやむを得ないかもしれませんが、当人を診察している立場の者として、その御本人だけに真実を隠し、回りの家族の意向に沿う、ということが、これはもう医療者だから、とかという立場を超えて、人間として辛い。逆に言えば、医療者だから辛うじて許される、そうでなければ許されないような罪悪のように思われました。
 毎週の診察の度に、どんどん食事がとれなくなってどんどん痩せていく。それでも意識ははっきりしていて、お話はきちんとできる。しかしそれも次第に声が細く、かすれ、痰がからみ、声として聞こえなくなる。右足の付け根の腫れも、本来は毎回診察をして、痛みの有無などの確認をしたいところでしたが、それこそ「腫れ物に触る」ようにして慎重に話を避け、表情や他の話から、痛みがないことのみ推測する、といった風でした。
 4月に入ると、食事のときに起き上がることもなくなり、ベッドに寝たきりとなりました。日中も寝ていることが多くなり、奥様も不安になり度々電話をもらっては看護師が行ったり私が行ったりしましたが、そのたび、もう起きていることも辛い、ぎりぎりの状態で、朝になったら呼吸が停まっていてもおかしくない状態です、覚悟して下さい、と、お話しするしかありませんでした。奥様も、その度、「覚悟はしています」とおっしゃるのですが、しかし、覚悟、なんてそうそうできるものではないのです・・・
 痰を出すこともしにくくなり、胸の呼吸音も弱くなり、在宅酸素の量もどんどん上げていくこととなりましたが、不思議と、「苦しい」「痛い」ということは少しもおっしゃいませんでした。
 5月16日、午後に伺うと、もう口の中はからからで、ほとんど何も食べたり飲んだりできなくなっているようでした。少し苦しそうな表情が見えましたので、もうこれは遠慮している状況ではなかろう、と判断し、痛み止めの貼り薬を貼り、少量の水を口に含ませて上げました。ごくり、と音を立てて喉が動きました。
 私は、もう危ないだろう、と思っていましたので、診療所に戻ってから夕方5時15分にもう一度お電話を入れたところ、娘さんが出られ、東京からついさっきやって来て、皆でお喋りをしていました、痛みも苦しみもなさそうで良かったです、とのお話でほっとしたのですが、その直後、5時半になって、娘さんから、呼吸が停まっている、との電話が入りました。
 5時45分、往診。「そばにいたのですが、少し電話をするのに席を外して戻ったら、息してなかったんです」と娘さんは、しかし、最期に立ち会えてよかった、とおっしゃいました。

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