在宅看取りの記録
Ⅲ 大変だった方
○○勤さん、享年77歳「7つの病院、9人以上の医者」
○○勤さんは、初めて御自宅に伺ってから約2ヶ月でお亡くなりになりました。肺癌を指摘されており、治療の手立てはない、とのことでの紹介でしたが、それでもそのあと、4つもの病院に色々と御相談することになりました。いくつもの病院や医師が関与することの難しさ、また、そうしたことが、果たして患者さんにとって満足いくものとなるのかどうか、考えさせられた苦い経験となりました。
勤さんは、もともと私の勤務していた医院の外来を受診していた方でした。その頃私が勤務していた医院では、私が訪問診療を専属で行い、院長が外来を担当していたのですが、勤さんは、院長が外来でフォローをしており、その年の4月の検診で、胸部のレントゲンで影を認め、より詳しい検査のために近くの病院の呼吸器の専門の医師を紹介しています。
その結果は、肺癌、ということで、そのあと、治療の方法を巡って、病院を次々と紹介となったようです。当院の外来にも月に2度は娘さんと一緒に来ておられたようですが、少なくともはっきりとどこかに入院をしたり手術をしたり、ということにはなっていなかったようです。
10月になって、段々「普通の生活」が困難になってきた、ということで、院長から私の方に訪問診療の依頼があり、10月26日に、御自宅の方へ伺いました。もともとは勤さんは、市内から車で30分以上かかる山間部に一人で住んでいたのですが、10月の頭からは、市内の娘さんの家に一緒に住んでいました。初回にお目にかかったときの印象では、表情が乏しく、喋ろうとしても声にならず、何だかぼーっとした様子で、娘さんの話では、ここのところ段々に認知症が進行しているのか、自分から話すこともなくなり、息子の名前も間違えたり、といったことがある、とのことでした。肺癌については御本人もよく承知はしておられ、結局のところは治療はできない、ということになった、とのことでした。
娘さんは、精神科の看護師さんで、それまでの経過をあらためてお聞きしました。当院から紹介をした近くの病院の呼吸器科の医師から、さらに、手術の可否等について、隣の市の大きな病院二つに紹介をされたようでしたが、はっきりとは言われませんでしたが、どうも、それらの医師とあまり良好な関係が結べなかったようでした。結局のところ、癌の進行の具合やら年齢やら体力やら、云々かんぬんの理由にて、手術も抗癌剤治療も難しい、となったのか、どこかの時点で御本人も怒り出してしまったのか、いずれにしても、癌に対する治療はできない、ということとなっていました。そして、どこかの時点から、不安を抑える、という意味でしょうか、抗不安剤や睡眠剤を結構な量処方されるようになっていました。
私の方では、癌に対する治療、ということは勿論積極的に行えることはありませんでした。しかし、少なくとも初回の訪問の時点では、勤さんは徐々に動かなくなってもおり、また、物忘れやぼーっとしていることも多くなっている、ということでしたので、むしろこれらの抗不安剤や睡眠剤の副作用とも考えられましたので、これらをいったん中止して、抗うつ剤と、食欲・体力増進のための漢方薬を処方することにしました。状況から考えると、癌であり、病院をあちこち巡って治療ができない、ということになり、うつ、と判断するに足るだけの背景と状態だと思われました。
通常、抗うつ剤の効果は、2~4週間くらいみていかないとはっきりしたことはなかなか言えません。その後、2週間ごとに訪問診療をしていきましたが、10月31日、11月14日、と、明らかに意思表示や発語がしっかりしてきて、食欲も上がってきました。娘さんから見ても、明らかに「意欲」が出てきた、ということで、昼から飲んでいた睡眠剤などを中止したことの影響も大きかったのでしょう。肺癌としての先行きはともかく、少なくとも御本人の意識状態や生活状態がしっかりしてくれれば、それに越したことはありません。
しかし、その次の11月28日に訪問した際には、数日前からまたトイレに行くなどの屋内の歩行もたどたどしくなってきた、どうも、右手足がうまく動かないみたい、とのお話で、診察してみると確かに、右手足に麻痺が見られていました。通常であれば、こうした手足の麻痺が現れてくるのは、脳卒中などを考えるべきなのですが、突然に起こったことではなく徐々に気がついてきており、また、もともと肺癌が基礎にある、ということから考えると、癌が脳に転移して、少しずつ大きくなっている、ということを疑うべき状態でした。
このような新しい症状が起こってきた際に、我々のような在宅訪問診療をしている立場では非常に判断が難しいことがあります。何らかの検査をすべきか、専門医に紹介をしてしまうべきか、自分の診療にとどめるべきか。
もともと、在宅訪問診療をしている、ということは、前提としては、少なくともおいそれとは病院に受診しに行くことが難しい状態である、ということなわけです。容易に他の専門医や病院を受診してもらえるようであれば、そもそも訪問診療をしている必要性も乏しいということになる(外来に来て頂けば良い)。訪問診療をするには勿論医者としても手間も時間もかかりますが、その分保険点数としては高く設定されていて、すなわち、医者としては儲かる(語弊はありますが)診療で、逆に言うと、厚生労働省としても、「訪問診療をするだけの理由」のない方の所に訪問をしているケースには、厳しい目を光らせています。一般的には、身体的な理由で通院が困難(歩行ができない、ほぼ寝たきりのような状態である)、ということが、訪問診療を開始する条件となります。しかし実際には、例えば、そうして訪問診療をしているうちに歩けるようになって外へ散歩に出たり、などできるようになって、もう訪問する必要がない、と判断されるような場合も多くあるのですが、なかなかこうした方々も、いったん訪問診療の便利さを味わってしまうと、「次からは外来に来てください」ということを納得してもらえないことも多い。曰く、「外来に行っても、何時間も待たされて疲れちまうし、先生の顔を見るのはせいぜい2‐3分、来てもらった方がなんぼいいか」。訪問診療では、家に上がり込んで、2‐3分で帰る、ということはまずなく、最低でも10分やそこらは何やかやお話をしたり、ちょっと重い方だったり処置が必要な方だったりすれば、軽く30分以上は付きっ切りになって「診療」をします。しかもそれが、家で寝て待っていれば来てくれる、とあっては、こんなに有難いことはなかろう、と、偉そうですがそう思います。あるいは、別の意味合いのお話としては、山間部、老老世帯で、町の病院まで行く足がない、というようなケースも今日的には多くあります。多くの病院・開業医が、バスでの送迎を行うなどのサービスをしてはいますが、そうしたバスからも外れてしまうような御家庭もあるのです。あるいは、高齢の独居のケース、など、歩行ができる、とは言っても、病院に行くことが困難で、毎日の生活自体をバックアップしておく必要があるようなケースでは、訪問診療もやむなしかな、と思います。要は、原則的には訪問診療は、「通院困難なケース」に行われるものですが、その判断はその方の身体状況のみならず、精神状況や家庭環境、要求度、等、様々な要素を勘案して行われるものだ、ということです。いずれにしても、訪問診療を行っている、というときに、他の病院に紹介をする、ということには、肉体的にも精神的にもハードルが高い、通院するのが困難だ、ということを承知の上で、紹介するに足るだけの理由付けが必要だ、ということになります。
さて、話は幾分それましたが、○○勤さんの場合には、「癌の進行した状態で、今現在は歩行可能であるとしても、今後症状は悪化していくことが予想され、近い将来には通院困難となり、痛み、食欲不振、その他、癌に関連した様々な症状が頻繁に現れ、それらにこまめに対応する必要が出てくるであろう」というのが、訪問診療を導入した理由です。別にこれは建前でこじつけたものではなく、実際、癌の方では段々に外出が困難になっていく、ということは大いに予想される。特に癌であるとの告知をされている方では精神的な要素もあるでしょうし、また、どこかに格別麻痺がある、というのでなくても、全身倦怠感、疲労、消耗、といった要素も出てきます。勿論入院と言う選択肢もあるでしょうが、自宅にいたい、という場合には、癌の進行に従って、訪問診療を開始することが一般的になってきています。
しかし、癌の場合、というのは、裏返せば、癌に対する治療としては病院に通院したり入院したりしても手の施しようがないので、本人や家族の希望を酌んで家に帰り、いわゆる「終末期のケア」を、在宅訪問診療や訪問看護で行う、ということを期待されている部分もあり、それはすなわち、何か問題が起こってももう、病院への紹介はせずに、安らかに家で看取ることを考える、ということにもなります。こういう書き方をしてしまうと、癌患者さんへの訪問診療に何かネガティブな印象を持たれるかもしれません。事実、「癌」そのものの治療に対しては、訪問診療では何もできないかもしれません。しかし、それは、そもそも大きな病院でも何もできない、ということになっているのであって、その上で、在宅での生活を安定したものにするために、できることをしよう、というのが我々の仕事です。癌本体には手の施しようがないのに、新しい問題が出てくるたびに、いたずらにあちらこちらの病院・専門医を紹介する、というのが、必ずしも患者さんのためになるとは限らない。
さて、勤さんの場合はどうだったのか。肺癌と指摘されており、それに対しての治療は難しい、とされてはいましたが、その肺癌が、ごく近いうちに直接的な問題(呼吸困難など)を起こすとは見えず、実は、我々はいわゆる「予後」はかなり長いのではないか、と考えていました。しかも、抗うつ剤の効果や睡眠剤等を止めた効果もあってか、精神状態や、日常生活の中での活動レベルなどは改善を認めていた矢先でもあって、「もし、肺癌本体は治療が困難であるとしても、転移している脳だけでも治療をできれば、生活のレベルは維持できるのではないか」、と私は考えてしまったのです。
ここから先の経過は、細かくは省略します。娘さんも看護師さんでしたから、医療的な説明はすぐに了解され、御本人にもお話しし、治療の可能性があるのなら、と、病院への紹介は納得されました。頭部のCT等の検査の結果としては、やはり、肺癌が脳に転移している、と。検査、紹介、検査、と、いくつかの病院を経て、最終的には隣県の病院で、脳の転移に対して、放射線治療をする、ということになりました。2週間置きに3日ずつ入院して放射線を当てる、それを3回、というスケジュール。ここまで来ると、もうすっかり私の了解の範囲を超えて、話は自動的に流れ始めていました。紹介した病院からのさらに紹介、という形で隣県までたどり着いたわけですが、私は勿論その隣県の先生は直接存じ上げず、放射線療法についても、医師として常識的に理解をしているだけで、現在の御本人の病状や全身状態と考え合わせて、どの程度の治療効果があるのか、精密な予測はできません。
結果として、12月上旬、12月下旬、1月上旬、3度、放射線加療を受けるために隣県の病院に通いました。検査上、脳はかなりむくみも来ており、放射線治療と併せて、むくみを取るための点滴や投薬も行われました。状態は一進一退、と言いましょうか、初回12月上旬の治療後は、少し麻痺の程度も軽くなり、活気も出てよくお話しされるようになったようでしたが、2回目の受診後は、「もう2度と行きたくない」とおっしゃり、娘さんの話では、認知症が進んだのか、昔の話ばかりしてかみ合わない、と。予定では3回受けることになっていましたが、3回目の受診をどうしたものか、判断がつきませんでしたが、結局のところ、お願いした手前、私から「行かなくてもいいよ」とも言えず、娘さんと御本人の判断に任せることになりました。
この頃には、結局私は後悔をし始めていました。こうした先端の医療というのは、余程医者同士の連携がうまく取れていて、また、患者さんの利益を総合的に判断できる主治医が、全体の治療計画についての指揮を取れる立場にないといけない。在宅訪問診療をしていながら、検査結果や治療効果についての情報も得にくいような状況でできることではない、と思い始めていたのです。
既にここに至るまでに、あまりにも多くの医者の判断が入っていました。私が知っている限りで、7つの病院の9人以上の医者がそれぞれの判断それぞれの意見を出していました。それは必ずしも一致するものでもなく、はっきり食い違うものでもなく、しかも、それぞれが直接に意見をぶつけ合って議論をしたものでもなく、遠く離れた病院どうしで、紹介状のやり取りなどで紡がれただけの情報交換でした。自分には、それらをコントロールできるだけの力がなかった、と思い知らされることになりました。
年が明けて1月早々、3日から5日まで、3度目の放射線療法を受けに行って自宅に戻った翌日の1月6日、ほとんど何も食べられない、と御自宅から連絡が入り、往診でお昼頃伺いました。そのときにはもう目も虚ろで、呼びかけても視線も合わず言葉もなく、呼吸も荒く、手足にはチアノーゼも出ていて、「危ない」状態でした。このままの状態であれば1‐2日ももたないであろうような状態。看護師の娘さんもそのことはみてとれていたと思います。
娘さんのお話しでは、「昨日まで、3日間の入院で放射線療法に行っていたが、入院中ずっと嫌がっており、『錯乱』したようだった。食事も全然とっておらず、昨日家に戻ってからも意味不明のことを言って錯乱が続いているようだったが、今朝からはおとなしくなってしまって・・・正月までは元気があった。このままでは情けない。水分もとっていないし何も食べていないので、点滴をするか、鼻からの管を入れて流動食を入れるかして欲しい」と。
在宅で、点滴をすることも、鼻から管を入れることも可能です。しかし、それだけで状態が改善するとはとても思えない程、全身状態が悪くなっていました。その状態だけを見れば、本来であればすぐに救急車を呼んで入院を考えるような状態なのですが、肺癌、脳にも転移している、という状態で、入院して果たしてどれだけの治療をするのか、またすべきなのか。癌だ、という診断名だけで、治療を手控えるようなことがあるべきではないのは勿論ですが、年齢やそれまでの治療の経過、これからの治療が本人に与える苦痛、それによって得られるメリット、等々、総合的に考えて、どこまでの治療をすることが「よい」ことなのか。
娘さんもそうしたことを承知はしていたのでしょう。今からまた入院をさせてもいいことはないだろう、しかし、やはりこのままでは悔いが残る、せめて点滴か経管栄養を、と思われたのでしょう。
私は、御本人の状態からは、もう最終末期と思われましたので、点滴も経管栄養も、苦痛を伸ばすだけになりかねないだろう、と思いました。その旨も娘さんにお話ししましたが、やはり娘さんは納得されませんでした。私は、鼻からの管を用意して、勤さんの体を揺らし、「勤さん、これから鼻に管を入れますからね。」と話しかけましたが、全く反応は返ってきませんでした。目は半開きでしたが上の方を向いており視線は動かず、私の言葉も聞こえていないかのように、手足も全く動かさず、ただ荒い呼吸をするばかりでした。娘さんもその様子を見て、やっぱり管を入れるのはやめてください、口から少しずつでも水分をあげてみます、とおっしゃいました。
その日の夕方、5時前、息を引き取った、と、娘さんから連絡が入りました。
こうしてお亡くなりになった方にはすべて、医者としては何がしかの後悔がついてまわります。経験を積めば積むほど、お亡くなりになることは避けようがなく、自分が責任を感じるようなことではないのだ、というような醒めた、幾分突き放したような言い訳も身につき、確かにそれも真実だ、と思う一方、やはり、最期の最期まで看取る立場の者として、もっと違った流れはなかったのだろうか、本当にこうした進み方でよかったのだろうか、という思いをしなかったことはありません。
○○勤さんの場合、それぞれの医者の判断にはかなり相違がありました。例えば脳外科の医師は、癌が転移した脳のCT検査を見て、「むくみもかなり強く、放射線療法を今から行うことの効果は疑問」と言われましたが、放射線科の医師は、「脳転移については、90%の期待値で制御可能、もとの肺癌を含めた化学療法など積極的に行って欲しい」との意見。肺癌については、それらよりもずっと前に、複数の病院で、化学療法や手術についての可能性が論じられ、最終的な病院で、治療不能、と言われており、そうした経緯に勤さんも嫌気がさしていた、ということだったのです。・・・・・・
それぞれの専門の、最先端の医療の担い手として、それぞれの医師達が自信を持って診断を下したのだろう、と、そのことについて疑念はありません。最終的にお世話になった放射線科の医師も、お手紙のやり取りだけでしたが、同じような「症例」の経験はかなり多く、「肺癌の脳転移だけでも1000例以上」と書いておられ、本当にこの分野においては専門の先生なのだ、と思いました。しかし、一方で、少なくとも3回目の放射線治療に行った際に、勤さん御本人が非常に抵抗された、ということ、あるいは、3日間の入院中にほとんど食事もとらなかったこと、などをどう判断されたのだろうか、治療を中断する、とか、入院をさらに延期するとか、という選択肢はなかったのだろうか、とも思ってしまいます。・・・こう書いてしまうと、非難のように受け止められるかもしれませんが、私には決してそのつもりはない。放射線治療、ということをお願いして、そのことに関しては本当にすばらしい技術と経験を持たれた先生だった。何通もやり取りをしたお手紙の文面からもそれは十分に窺われました。責められるべきは、総合的な判断をすべき立場だった自分の怠慢と、指揮能力の欠如であった。
どうすればより良かったのだろう、どうしていれば、勤さんにとってより幸せだったのだろう。
この稿を閉じるにあたって、地域医療、農村医療についての偉大な先達、私が研修医生活を送った、長野県の佐久総合病院の初代院長、若月俊一氏の一文を掲げて、あらためて自身の戒めとしたいと思います。
「今日の医学は、専門分科は進んでいるが、ヒューマニティはないと一般にいわれている。そのことは、患者が一番よく知っていて、今日の医者は『病気』はみてくれるが『病人』はみてくれないと訴えている。つまり、今日の患者の生物学的側面はよくみるが、人間の社会的側面は全然みようとしない。そこには、生物が対象としてあるが、『人間』はなくなっている。ヒューマニティがないのは当然である。
患者をみるのに、まずレントゲンをとって透かしてみる。物理的にだ。また、血液を科学的に分析する。コレステロールは、尿素、尿酸は、GOT、GPTは、というわけだ。だがその人が社会的にどういう地位にあるのか、金持ちか貧乏人か、農家か非農家か、そもそもどういう環境に住んでいるのか、どういう労働や家庭の条件で暮らしているのか、そんなことは聞こうともしない。健康の基本的条件であるこれらの生活や環境の改善に尽くそうなどという積極性はない。完全な社会性の没却だ。・・・・」
(『農村医療』第8号(昭和48年))
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