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​在宅看取りの記録

Ⅲ 大変だった方

○○勲さん享年87歳  「100段の石段の上」

 ○○勲さんは、100段近い石段を昇った上のお家に奥様と二人で住んでおられ、我々にとっても、何度も何度も重い処置道具を下げて、雨の日も晴れの日も石段を息を切らして昇り降りしたきつい思い出と直結した、印象の深い患者さんでした。それでも私はまだ、年齢よりは少しは若い肉体年齢を自負はしており、この石段も比較的ひょいひょいとは登ったものですが、特に訪問看護師のチーフなどは、年齢も年齢、一休みも二休みもしないと行き着けない、極楽浄土のようなお宅でした。そして、勲さんにとっても、極楽浄土のお家だったのだ、と、そう思います。
 我々訪問診療・訪問看護に依頼があったのは、入院先の病院からでした。6月20日に心不全のため入院、加療にて安定し退院することになったが、動けなくなってしまったので、訪問診療を依頼、と。ごく簡単な、循環器科からの紹介状で、お盆前には退院したい、という、御家族と病院との切迫した要求の中、8月4日に病院に伺った上、8月9日に退院となりました。今思えば、この病院訪問の際に、もっとしっかりと背後の状況を確認しておけば良かった、とも思いますが、どちらにしても御本人・奥様が退院を急いでおられたのは事実ですので・・・
 病院訪問の際、奥様に、御自宅が100段近い石段の上である旨を伺いました。今回入院する前から、勲さんはもう石段の昇り降りはできない状態で、しかも救急車を呼んだときには具合が悪かったわけですので、下まで降ろすのは本当に大変で、担架に載せて5人がかりで運び降ろしても1時間くらいかかった。もう今度退院したら、2度と病院には行かない、と、勲さんも言っているし、自分もそう覚悟している・・・・・・と。勲さんは、かなり難聴が強く、普通の声の大きさで喋ってもほとんど聞こえない様子でしたが、耳元で少し大きな声で喋るとよくわかる。それでもほとんど言葉を返すことはありませんでしたが、うなずいたり笑ったり、といった表情は豊かな方でした。高齢の男性の方で、初対面からよく喋る方というのは滅多にいないので、特に違和感もありませんでした。
 今になってあらためてカルテを見直してみると、退院されてからお亡くなりになるまで3ヵ月強、「落ち着いていたとき」というのが本当にほとんどなく、いつでも何か処置をしたり点滴をしたり、熱を出したり血糖が高かったり、と、大荒れの状態が続きました。私が訪問した回数が37回、平均して3日に1回くらいでしょうか、訪問看護はそれ以上に伺っていて、おそらくほぼ毎日私か看護師は訪問していたように思います。
 8月9日に退院され、8月10日に訪問看護で伺った際に、以前より糖尿病で服薬していた、という情報はありましたので、血糖を測定してもらうと、食前で400以上と極端な高値でした。すぐに臨時往診し、それまでの御自宅での血糖測定の様子などを伺い、投薬の管理を開始。12日からは高熱を出すようになり、点滴含め対応に、連日の往診となりました。
 奥様は、やはり80歳以上の方で難聴のため、大声を出さなければいけませんでしたが、それまで二人暮らし、お互いを支えあってきただけのことはありしっかりした方でした。勲さんの血糖値は以前からかなり高かったようで、血糖も以前から奥様が自宅で測定していた記録がしっかり残っていましたし、その他、投薬や受診の記録、毎日の血圧や熱の記録、それらについての感想も事細かに、それも、広告の紙を切りそろえてメモ帳として記載されていました。段々に分かったことですが、奥様は、何十年に渡って、毎夜、日記も克明につけておられたそうです。(おそらく60歳くらいだったと思いますが)娘さんは別に住んでおられましたが、こちらも介護の仕事を長くしていた、ということもあり、とても若く見え、我々が伺う時にはほとんどいつでも同席されていました。このお二人は、勲さんの介護をする、ということに関しては覚悟も十分でしたし、技術的にも十分な方々でした。
 先にも書きましたが、私は今回、退院の時点で失敗をした、という思いでした。わざわざ入院中の病院に足を運んでいるのは、あらかじめ患者さんや御家族の方と顔を合わせておくということも勿論ですが、医者である以上は、入院中の病状や検査結果を確認したり、主治医や看護師から情報を得たり、ということも重要なためです。勲さんの場合には、もともと糖尿病であった、という情報はあったものの、入院中に血糖を注意して測定していた形跡はなく、これはおそらくほとんど問題がないという判断なのだろう、と勝手に思い込み、退院後にチェックをしよう、と考えてしまったのです。病院を非難するわけではありませんが、心不全という病名で、循環器科に入院していた、ということで、血糖に注意が払われていなかった、ということもあるのかもしれません。
 いずれにしろ、こうして退院直後から高血糖の状態が続き、すぐに高熱を出し、ということで、連日の訪問診療・訪問看護が開始となり、高台のおうちが、我々にとって入院病棟と同じようになりました。
 最初の数日の段階で、それまで服用していた糖尿病の薬を増薬したりしても、血糖のコントロールは全くうまくいかず、インスリンの注射を開始することにしました。この頃の時点で、私は、まだ勲さん御一家との付き合いも浅く、きちんと加療をするなら再入院をすべきだろう、とお話ししました。既に高熱を発し、点滴も始まっており、状態の把握も十分でないままに、在宅往診で不確実な管理をするのは得策ではないと思われました。しかし、一日も早く退院して帰りたいと望んでいた我が家に、やっとの思いで退院して来て、さあこれから、というときにまたしても入院、ということは、御家族一同、誰も望まれませんでした。御本人、奥様、娘さん、それぞれに考え方には勿論微妙な違いはあったかもしれませんが、基本的には、御本人の、もう入院はしない、という強い意志に、御家族は皆同調していました。まだお付き合いも十分でない段階では、我々医療サイドへの信頼感も出来上がっているわけもなく、また、我々からしても、御本人や御家族のお考えも明確にはわからず、どうしてもお互い、腹の探り合いのようになってしまいます。しかし、勲さんの場合には、こうして最初のほんの一週間程の間に、色々なお話をしたり処置をしたり、という過程で、お互いの間に(口幅ったいですが)信頼関係が結べたように思い出します。決して、治療がうまくいって状態が良くなった、とは言えず、我々の側にも多々なる失敗もあり、申し訳ない思いもいっぱいあるのですが、我々も在宅で精一杯のことをしてあげる覚悟が出来、また、御家族にも精一杯の協力をしてもらう体制を整えたように思います。
 以降、医学的なお話としては、状態は全く不安定で、次々と問題が起こりました。
 点滴や抗生剤の使用で、高熱が治まり、徐々にインスリンの量も調節して、血糖値も少しずつ落ち着きを見せてきましたが、この高熱が出ていた間に、仙骨部(お尻の少し上)に大きな褥創(床ずれ)が出来てしまいました。もともと寝返りを打ったり少し起き上がりかけたり、といったくらいは動けた方だったので、ここまでの褥創は予想していなかったのですが、高熱の間動きが落ち、また汗をかいたり、栄養も落ちたり、といったことが重なっていた間のことで、これも我々の油断でした。10cm以上の大きな褥創は、一度出来てしまえば、通常でも完治するのに数ヶ月はかかります。9月頭から、私は在宅で切開をして、壊死した部分を取り除いたり、といった治療は行いましたが、糖尿病の方はこうした傷の治癒が極端に遅れてしまいます。この頃はそれでもその他の部分では一番落ち着いていた頃かもしれません。訪問サービスでお風呂にも入ったり、調子のいい時には、ベッドの脇に足を下ろして座らせて、カラオケをしたり、といったこともありました。ベッドサイドで、私が支えて座っている写真が残っていますが、その目はしっかりとカメラの方を見て、薄く微笑んでいる表情がとても印象的です。
 退院当初は食事もあまり摂れず、度々点滴をしてもいましたが、この頃にはだいぶ食欲も上がり、おかわりも要求するくらいになっていました。勲さんは相変わらずあまり我々とお喋りをする、という方ではなく、口数は非常に少なかったのですが、表情はとても豊かで、褥創の処置は毎回かなり痛かったはずですが、じっと我慢して、終わると「ありがとう」と言って下さるのが、実に申し訳ない思いでした。
 しかし、食欲が旺盛になったせいでしょうか、血糖値はまた上昇するようになり、インスリンの量もジワジワと増やしていくことになりました。本来、かなりの糖尿病というべき状態ですから、食事量を制限しなければいけないのかもしれませんが、これも在宅医療での悩みの一つです。やっと奥様や娘さんの作る手料理を好きなように食べられるようになって、しかも、大きな褥創もあって栄養も十分に摂らなければいけない状況で、何より、ずっと食欲が落ちていたのがようやくおかわりもするようになって、・・・食事制限をしなければいけない、ということは、非常に難しいのです。実際には、いくらおかわりをする、と言っても、オーバーカロリーになる程の食事をとれていたとは思えないですし、毎日の食事量に波があったのも事実です。在宅での管理の限界、と言ってしまっては、ただの私の怠慢かもしれませんが、大きな喜びであるだけに、食事を制限することはとても辛いことです。
 10月に入って、また高熱を出すようになりました。お尻の褥創は、処置を続けていて、ある程度きれいになっているな、と思っていたのですが、このとき同時に、陰嚢部が赤く腫れているのに気づき、お尻の褥創をよくよく調べてみると、皮膚の下にずーっとトンネル状に傷が広がって、肛門を回って陰嚢まで続いていることがわかりました。実際には発熱が先であったのか、この褥創の広がりが先であったのかはわかりませんでしたが、どちらにしても、この創の広がりは、かなりの処置の困難さを思わせました。何より、肛門から陰嚢にかけて、膿もかなり溜まっており、痛みも今までよりなお強いものと思われましたし、奥様にも、それまででも、10cmもの生々しい傷の洗浄などの処置を手伝ってもらっていましたので、この上なお一層の苦痛を、御夫婦ともども味わわせるのは酷であろう、と、私はそう思い、あらためて入院のお話しを、お二人にしました。しかし、あれこれ言い訳をしてみても、振り返ってみれば、私自身もう逃げ出したいくらいのつもりになっていたようにも思います。もうこんな状態になって、家で見続けることは無理だ。少なくとも私にはできない。誰か他の人、頼む、と、それくらいの考えだったのか、と思い返します。
 入院の判断、は、在宅医療の中で、いつまでやってみても結論が出ないテーマです。どんな状態になったときに、病院に入院をお願いすべきか、あるいは、本人・家族に入院について切り出すべきか。
 私自身も、勿論病院でも長く働いてきましたので、逆の立場として、開業医の医者から患者さんの入院の依頼があったときに、「なんでこんな状態で入院を依頼するんだ(入院の必要はないだろう!)」と思うこともあり、逆に、「なんでこんな状態になるまで病院に来させなかったんだ(もっとはやく入院させろ!)」と思うこともあり、様々でした。しかし自分がこうして、病院に入院をお願いする立場に立ってみると、簡単に患者さんの「病状」だけでは判断ができないものだ、ということが思い知らされます。
 純粋に「病状」だけ、と言うと、例えば検査結果で、CRPという炎症反応を示す値が20以上もある、と言うと、入院先の医者もまあ黙って受けてくれるかも知れません。また、連日専門的な傷の処置を必要とする、などの状態では、入院が必要と言ってよいかと思います。また、点滴にしても、1回限りくらいであれば在宅でも行いますが、少なくとも数日は連日続けたり、あるいは、抗生剤の投与も必要、ということになれば、入院が妥当、ということになってもいいかと思います。これら3つは、全て、この10月に入った時点での勲さんに当てはまる項目でしたから、病状からの判断で入院をさせてもらうことには、おそらく入院先の病院の担当医も異論はなかったであろうと思います。これは、「背景」を見ない振りをして、医者同士、紹介状でやり取りをする場合には、このラインで通用するだろう、というお話です。
 しかし、当然のことですが、まず御本人の希望はどうなのか、ということ、さらに、御家族の希望はどうなのか、ということもまず問われる項目ではあります。また逆に、重態である場合に、医者としては御本人が拒否をしても必要な医療を放棄すべきではない、という考え方もあります。また、本人や家族の希望、と言っても、単に入院をするしないの希望、というだけでなく、入院をしたとしてどのような治療を希望するのか、手術まで考えるのか、とりあえず今だけを乗り切って、完治しなくてもまた帰ることを希望するのか、と言った、治療内容についての希望まで考慮しておく必要があります。
 さらに、今回のように、入院そのものが(高台にあって)非常に困難である、というようなことも、考慮に入れるべき場合もある。
 逆に、純粋に「病状」だけを考えればとても入院は必要ないような状態であっても、例えば、老老介護の介護者の方がもうぎりぎりであって、二人の生活が破綻寸前である場合に、緊急避難的に入院をお願いする、といった場合も実際にはあります。これはもちろん、病院の側からすれば、入院の適応はない、と言われかねないのですが、類するケースが多く、介護保険上の処理だけではどうにも追いつかない、という場合はしばしば出会います。
 結論としては、ありきたりな言い方になりますが、結局のところ、個々のケースそれぞれ、状況を良く考えて、ひとつずつ判断をするしかない。この問題に、「線引き」をすることはできない。どんな状態であれば入院、という線引きは、一例ごとに反省を余儀なくされます。
 勲さんは、既に述べていますように、入院はあくまでしたくない、とおっしゃいました。御家族もあらためてそれに同意され、あくまで在宅での処置を続けていくことになりました。
陰嚢は見た目にも真っ赤に腫れており、膿が溜まっていると思われましたので、既に仙骨部には大きな創があったわけですが、さらに、陰嚢の少し下の部分に切開を加え、膿が出やすい状態にしてやりました。そこから注射器で水を流して中を良く洗うと、汚い膿がたくさん流れ出てきます。指を入れると、皮膚の下でトンネル状に仙骨部の創まで通じており、反対側は、陰嚢まで指が届くようでした。傷の全体像は、目には見えるものではありません。表面的には、仙骨部の直径10cm強の傷でしたが、皮下のトンネル全体は、陰嚢まで含めると直径25cm以上にもなっていたでしょう。
 こうして、毎日毎日、大量の水をいきおいよく傷に入れ、それをまた出して、傷の中の見えないところまで良く洗うことをひたすら繰り返しました。高熱もあり、食欲も落ちていましたので、点滴も継続し、抗生剤も連日注射していました。87歳、もともとの全身状態、重度の糖尿病・・・と考え合わせると、もう限界だろう、と思う一方、いや、この傷さえ何とか制圧できればまだ望みはあるのでは、と、私の中でも日々、判断が混乱しました。それでも、この創の処置を始めて、膿がどんどん外へ出せるようになってから、熱はどんどん下がり、炎症反応や、感染、という意味では検査結果も急速に改善はしていたのです。しかし一方で、栄養の低下や貧血はどんどん進行していました。
 いったい、在宅でどこまでの治療をすべきなのだろう?高度の貧血に対して輸血はできるのだろうか?栄養の低下もあるが、蛋白質の点滴は?・・・理屈で言えば、医者がその気になれば、病院でできて在宅でできないことは、持ち運びができない特殊な機械を使うもの以外はありません。CTを撮る、とかいうことは勿論、残念ながら、CTの器械を持って行くことができない以上は、不可能です。大掛かりな手術や検査は困難ですが、ほとんどのことは家でできるはずです。しかし、そうは言っても多くの処置は、やはり一定の危険を伴うものでもあり、ずーっとすぐそばにスタッフが付き添っていられる入院の状況とは違う、おのずと在宅でできることの制限はあります。
 10月の後半になると、創からの膿はもうほとんどなくなり、毎日傷に水を流し入れてもほとんどきれいなまま出てくる、という状態になりました。熱も下がり、11月に入った頃には反応も良くなり、食欲も上がってきました。11月2日のカルテには、「久しぶりに起こして、ベッドサイドに座らせる。3-4分程度。前傾して首がすわらないが、何とか自分で首を挙げて妻を見ようとする。表情良い・・・反応良好、食事量アップ。・・・」と書いており、私自身も、何とか創の処置の見通しが立って、ほっとした様子でいたことが思い出されます。残っている創は相変わらず大きなもののままで、やっと菌の感染はひと段落した、というところでしたが、これからこの大きな創が治って、御本人の体力がついて、・・・というためには、あとは、とにかくたくさん食べましょう、ということをひたすらお話しするしかありませんでした。血糖の問題も相変わらず残ってはいましたが、インスリンの量もこの頃には決まって、血糖値は安定してきており、やはり優先順位としては、とにかく食べましょう、ということの方が大切でした。勲さんご自身も、一番苦しい時期を越えた、という実感はあったのか、穏やかな表情で、痛みの訴えもなく、あれこれと食べたいものを要求されました。
 11月17日、この1-2日元気がないんだ、との奥様の連絡で訪問しました。見かけ上はあまり変化がわかりませんでしたが、ややむくみも出ており、栄養の低下、心不全、が疑われました。この日血液検査をして帰りましたが、結果としては、貧血・栄養低下が前回の検査と比べても進行しており、心不全の数値もかなり高値でした。
 病名として、心不全、ということをよく使ってしまいますが、言葉の意味としては、「心臓が弱っている」と言う程のことで、勲さんのような場合だと、これだけ色々な病気や傷を抱えてきて、動けなくなってきて、の、最終末像、ということをも意味していました。元気がない、むくんできた、食欲が落ちてきた、・・・そして、みるみるうちに、尿も出なくなってきて、呼吸も苦しくなって、・・・心不全の際の治療として、心臓の負担を下げるために、利尿剤という尿を出す薬を使います。そうした型通りの治療は開始したものの、今回は厳しいだろう、ということが、直観的にみてとれました。創はよくなってきていて一山を超えたところだっただけに、それでもなお栄養も低下、貧血も進行している、ということは、創の大きさをカバーするだけの栄養補給ができておらず、全身の衰弱が進んでいる、ということを意味していました。
 11月20日の夕方に伺った際には、もう朝からほとんど尿が出ない状態で、息も荒く苦しげな様子でした。3度目、入院はしなくていいですか、と、御本人・奥様に確認しました。もう私も、した方がいい、とは言えませんでしたが、このときもやはり、「病状」からすれば、入院をすべき状態です、という意味でのお話でした。奥様には少し迷いもあるようでしたが、その前夜にも奥様と御本人とで話し合いをされたそうで、御本人ははっきり、入院はしたくない、ありがとう、ありがとう、と繰り返し話されました。
 その日は、利尿剤その他、必要な薬を注射していきましたが、これでも翌日までに尿が出ないようだと、もう打つ手がない、と思われました。そして、翌朝9時、様子がおかしい、と奥様から電話があり、即伺いました。
 家に入って行くと、奥様は畳に座って、入って行く私の方を向いて、「お世話になりました」とお辞儀をされました。朝、水を少し飲ませたら、うまい、と言ってくれた。そのあと、別室で自分の朝食を15分ほどでとって戻ってみたら、息が停まっていた、のだそうです。

 後日、奥様からお手紙を頂きました。我々としても、精一杯のことをした、という思いと同時に、やはり医療従事者としては、悔やまれる判断や悔やまれる対応、あれこれと思い出される患者さんでした。しかし、このお手紙を頂戴して、私も訪問看護師も、とても救われる思いがしました。決してこれで満足をして良いわけではないと思います。しかし、この仕事を続けていける、勇気、というか、気力を頂いたような気がします。
 奥様はその後、娘さんに付き添われて私の外来に受診に来られるようになりました。少し小さくなったように見えましたが、お元気で、高台の家で一人暮らしを続けて、100段の石段を昇り降りして出かけてもおられます。「私が動けなくなったら、また先生お願いね」と言われますが、「やだよ、俺はもうあの石段は昇りたくないよ」と笑って返事をしています。

 

 皆川先生、看護婦さん、お世話になりました。主人が在宅でしずかに最後を迎いられたのは、みなさまのおかげさまと感謝して居ります。先生と看護婦さん変る変る雨の日も、風の日も、そして夜遅くなった日も、また朝早くからも100段もの階段を上って来ての看護をして下さいました。そして3ヶ月と10日、100日間でした。
 退院後すぐに床ずれが出来てしまって、大へんな日々でした。8月9月暑い日が続き、主人も床ずれ足の痛みがそばにいるのが本当に辛い日がありました。糖は安定しない食べるのが食べれない、水も飲めない日があり、先生は在宅では無理と言われ、どうしますか、本人は、自宅で最後を迎えたいとの願いで、みんなの反対を聞かず、私が命をかけて介護するからと娘に力をかりて、ここまでやれたが、困ってしまって、何度も主人にきいたのですが、これ以上在宅での治療は無理だと言ったら、これでいい、ここにおいてくれ、苦しくなったらそっとしておいてくれ、と言うので、私は嫁として最後まで自宅でと決心しました。娘は音楽かけて体操させたり一生懸命やりました。自宅で出来ることは歌でもカラオケでも床ずれ足の痛み紛らわすのにやったら、よろこんで自分でも歌を口ずさむようになり、ほんのひとときでしたが幸せだナーと言ってくれました。こんな幸せな介護も出来るんだと。
 在宅だからの楽しい日もありました。3ヶ月過ぎた頃より、何してやっても、ありがとう、家に来れてよかったねと言うとありがとう、夜にはねむらず、昔の話をきかせてくれ、話をしよう、とひとばん話をしてた日もありました。63年も前のことをあの時はどうだったとか、頭がさえて何でもこたえるし。
 あの時は、昭和19年のこと召集令状が来てお前が長男産気づいて苦しんでいるのを、このいわきに一人残して出征する辛さ、必ず生きて帰ってくると思った、と。思いがかなって終戦に帰って来れて88歳まで長生き出来た。おれの思ってることは、必ず通る、だから母ちゃんたのむ、ととぎれとぎれに語ってくれました。亡くなる前5日ぐらい前、夜は電気消さないでくれ、よーく見て行くんだと、私胸いっぱいになりましたが涙見せてはとこらえました。そして亡くなる前夜、母ちゃん助けてくれ、サヨーナラーと言った。ありがとうは口動かすだけだった。
 私は夢中で、私そばにいるんだから、しずかに行くんだヨーと水をやってしずかにねむった。
 11月21日、朝おはようと声かけた。うなづいた。水をやった。娘が声をかけたらうなづいた。そしてしずかに、しずかにねむるように自宅で最後を思い通りおわりました。
 私は先生、看護婦さんにお礼言うのがせいいっぱいだった。ありがとうございました。
 本当に100段の高台で、100日間の看護ありがとうございました。
 厚くお礼申し上げます。
 

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