在宅看取りの記録
Ⅲ 大変だった方
○○幸広さん、享年57歳「息子を看取る」
○○幸広さんは、詳しい経過が私自身によくわからないままに診療を開始し、約4ヶ月の経過を経てお亡くなりになった方です。
こうしたこと・・・「経過がよくわからない」などと白状するのは、医者としては本当に恥ずかしいことです。恥ずかしいことの上塗りをするようですが、少し言い訳をしてみます。
私の仕事、在宅への訪問診療、というのは、本人や家族からの依頼で突然始まる、ということはまずほとんどありません。多くの場合には、背景に既に色々な病気があって他の病院や医院にかかっていて、その病気が徐々に進行して、病院や医院に通院することができなくなって、初めて前の医者から紹介をもらう、という経過をとります。一番多いのは、高齢の方が病院に入院していて、退院可能となったけれど、動けなくなった(寝たきり状態になった)ので、退院してからは訪問診療を頼みたい、というケースです。こうした場合で、入院中から紹介を頂いていれば、入院している現場に事前にお訪ねして、入院中の経過のカルテやら検査結果、レントゲン・CTなどの画像検査を見せてもらったり、あるいは、そのときの主治医や看護婦さんに状況を確認したり、ということもでき、比較的に、患者さんの状態は、少なくとも「病気」の経過については理解できるものです。
しかし、入院中ではなく、外来で他の病院にかかっていて、「そろそろ通院困難だから、訪問診療を頼みたい」というケースではなかなかそうもいきません。実際には、こうした紹介が入るかなり前から、既に患者さんは通院できなくて、御家族が薬だけ取りに行っていた(本当は勧められることではないのですが)、ということもかなりあり、しかもそうした状況がもう1年も続いていた、などということもよくあることなのです。そうすると、前の医者からの形ばかりの紹介状も、「通院困難ですので、よろしく」といった以上のことは書いておらず、というのも、その医者も、もうずーっと患者さんを診ていない、もちろん、検査をしたり、ということもずーっとない、ので、書きようがない、ということなのでしょう。これもまあ仕方ない(といってよいのかどうかわかりませんが)、とにかく、結局のところ、要請があってお訪ねして初めて、そこからやり直し、ということになることがよくあります。既に長い経過がありながら、です。
幸広さんの場合も、それに近い状況でした。
初めて御自宅に伺ったのは5月22日。クリニックから歩いても5分程の、小さな平屋のお宅でした。幸広さんは当時まだ56歳、お母さんと二人暮しでした。紹介された病名を見ると、「糖尿病、多発性脳梗塞、慢性腎不全」。ベッド上ほぼ寝たきりの状態で、目がぎょろりとこちらを向いています。御挨拶しても、返答はなし。促すと、「あー」くらいの発語はあります。視線は合い、簡単な指示(目を閉じてなど)は可能なようで、理解はしているようでしたが、意味のある言葉は出てこないようでした。右手は動かしますが、左手足は脳梗塞のためか動かず、右足も曲ったまま固まっているようで動かしませんでした。口からの食事もできないのでしょうか、胃ろう、という、おなかの表面から胃に直接通じるチューブが入っており、そこから流動食を入れていました。自分では起き上がったり寝返りを打ったり、ということもできません。介助して車椅子に移して、週に何度か、デイサービスに連れて行って、お風呂に入ったり、はしているとのことでした。
病名からすると、脳梗塞があって、左半身の麻痺が起こった、ということなのでしょうか。通常、脳卒中で言葉が出なくなる「失語症」は、右半身の麻痺と合併するケースがほとんどで、なぜ言葉が出ないのかはわかりません。幸広さんは独身で、お母さんが親身になって介護をして下さっていましたが、お母さんにお尋ねしても、医学的な詳しいことまではわからない。どうやら、幸広さんは東京に出ていたようですが、病気になって、田舎に帰ってお母さんと一緒に住むようになった、脳梗塞は、2-3年おきに3度も起こしており、段々に動けなくなってきた、若い頃から糖尿病だとは言われていた、というくらいが、お母さんの話でわかりました。お母さんにしてみれば、今までのことの細かい経過、は、忘れてしまっていても仕方ない。今こういう状態である、介護するのも大変になってきている、ということが現実に迫っている主たる問題です。
前医では、定期的に採血検査をしていた節はあるのですがはっきりせず、投薬も多量に(胃ろうからですが)服用していました。少々乱暴ですが、糖尿病・腎不全、という病名もありますので、初回伺っていきなりでしたが、採血の検査だけさせて頂くこととしました。
採血の結果は、高度の腎不全、でした。糖尿病は、お母さんの話では、昔はインスリンの注射もしていた、とのことですが、検査の数値としては正常で、既に薬も飲んでいないようでした。腎不全については、医者としては、初めての診察をした時点でこんな検査結果を見るとびっくりしてしまうような数字、でした。具体的に言って、「人工透析」を考えるべき、という数字、でした。
人工透析は、その方法としてはどんどん進歩していって、受けやすい医療になっては来ているものの、やはり、かなり「苦しい」「辛い」治療のひとつです。腎臓の機能が悪くなってきて、自分で尿が作れなくなって来ると、体の中、血液の中に、本来尿として排出してしまわなければならない様々な「毒素」が溜まってしまう。そこで、定期的に血液を体の外に出して、「毒素」を濾しとってしまう、ということをする。これが、人工透析です。急な病気で、一回から数回透析を行ってそれでおしまい、ということもありますが、多くの場合、「慢性腎不全」で、本人の腎臓が今後よくなる見込みはなく、生きている限り永続的に行うことになります。症状によって違いはありますが、週に一回、二回、三回、と、半日ベッドに横になって、血を外に出して機械を通して、またその濾しとった血を体に返す。若く、元気な方で、仕事をしたりしながら、夕方以降に透析を受けに来る、というようなケースも多いのですが、一方、高齢で、徐々に進行してきた腎不全の終末期、といったケースも多く、後者のような場合には、そもそも透析を開始・導入するかどうか、というところで、大いに悩むことになります。・・・もっともこうした言い方も、一般的には誤解を受けかねない。「生命を救うためであれば、透析するしかないのであれば、したらいいじゃないか」と、無条件に思う方も多いかもしれません。しかし、我々のような訪問診療の現場では、「無条件に」始める、ということの方がむしろ少ないくらいでしょう。
例えば、話を極端に飛ばしてみます。100歳を過ぎて、脳梗塞後遺症のためコミュニケーションもまったくできず、手足も動かず、寝たきりで、目を開けることもない、という方がいるとする。定期的に検査をしていたら、腎臓の機能が徐々に悪くなっており、透析をしなければ命が危ない、という状態になった。自宅で介護をしているのは75歳の娘、年金生活。・・・もしあなたがこの娘の立場だったときに、この母親に、週3回の人工透析を受けさせたいであろうか?
原則を言うなら、こうした治療についてはもちろん、まず本人の意思を確認するべきである。それが不可能であれば、家族の意見を聞いて、本人の意思を「推定」する(若いときにどんなことを言っていたか、とか、どんな人だったか、とか)。それでもはっきりしなければ、家族の意思に従うか、あるいは、医者として、「やる」か「やらないか」を、強く勧める、ということになる、のかもしれない。日本の場合には、非常に多くの場合、御家族も、「先生にお任せします」と言われる。・・・おいおい、本当にそれでいいのか?
上の例の場合、もちろん、今の日本の体制であれば、週3回、送迎をして病院まで連れて行って透析を受けてもらうことは可能です。金額的にも、様々な補助を受けられるでしょうから、娘が年金生活、といったことは、はずして考えるべきことであるかもしれません。しかし、そうしたことをはずしたとしても、やはり、100歳過ぎの、まったく動けない、喋れない、意思疎通のできない方に、透析を始めるべきかどうか、ということは、議論の余地があるでしょう。こうしたことに、「正解」はない。私は個人的には、自分の親であったり、自分であったりした場合には、やりたくない、ということは言えるが、やりたい、という人がいても止める理由はない。辛い日々になると思いますよ、とは言えるだろうけれど、「やるな」とは言えない。
ちょっと問題をすり替えてしまいましたが、少なくとも、「生命を救うためであれば、100%やる」ということではない。これは透析に限らず、その他の医療全般についてそうです。若い、基本的に健康な方の医療というのは、このあたりのことがスルーできる場合が多い、というだけです。30歳の方に大腸癌が発見された。転移は見当たらない。早く見つかってよかったね、今のうちに切っておいた方がいいよ、ああそうですね、で大きな問題はない。手術の後、そう遠くなく仕事にも復帰できるであろう、定期的に手術後の検査を行って、再発や転移を監視する。・・・中には、色々調べて、手術はいやなのでもう少し様子を見たい、という人もあるかもしれないが、概ねは、医者の勧める方法に従って大きな問題はない。しかし、これが、60歳だったら、80歳だったら、100歳だったら・・・・・・年齢だけでものを言ってはいけないのですが、それでもやはり、高齢になれば状況は変わる。
さて、だいぶ脱線しましたが、幸広さんの場合はどうでしょうか。年齢はまだ若いと言っていい、56歳。喋れないようですが、一定の理解はしているようだ、でもどの程度かはわからない。体は、事実上、動かない、と言っていい。・・・私自身は、その時点でまだ2-3度しかお目にかかったことのない時点で、いきなりこのようなシビアなお話をしなければいけない。いや、医者としては、「話さない」というのも一つの考え方かもしれません。内緒にしたまま、黙って衰弱して亡くなっていくのを見守る。・・・しかし、そもそもそれ(してしまった検査結果を本人・家族に伏せる)が許されるかどうか、ということもありますし、仮に許されるとしても、それはもっと私と患者さん・御家族との関係が深くなっている場合、のことでしょう。付き合いが長くなって、そもそも検査をする以前から、医者として、「そろそろ危ないかも」と推測がついても、あえて「検査もしない」という方法論はある。いずれにしても、結局は医者と患者も人間関係ですから、深い付き合いになってきて初めて許されることというのはあるかもしれませんが、初対面に近い場合には最低限のマナーはあります。
結局、私は逃げを打ちました。検査結果としては、透析をすべきレベルだが、実際にやるべきかどうか、「できる」かどうか、は、透析の専門家に相談しましょう、と。他の医者に下駄を預けることにしてしまったのです。母親としても、専門家に相談する、ということは異論はなく、連携の病院に入院をお願いし、透析医の判断を仰ぐこととなりました。私は、自分が透析を行えるわけではないので、検査結果から判断して専門の医者に判断を仰ぐ、ということは、医者として特に間違ったことではない、ある意味でスムーズな道筋ではあります。しかし、心理的には私は、責任を他に預けた、という逃げの気がしていました。
6月14日に入院し、腎臓中心に検査を色々と行い、6月30日、担当医と家族との面談に、私も同席しました。その際の話を、私は次のようにメモしています。「・・・(担当医)本人の意思確認ができない・・・透析をしたい、してもいい、したくない、のいずれかがわからない。・・・担当医の意見としては、透析をすればいくらかの延命は期待できるだろうが、辛い治療でもあり、このまま自然な経過とする方がいいのでは、と思う。・・・・・・母親としても、息子の意思確認は難しい。・・・母親としては、少しでも長生きして欲しいが、透析は現段階ではしたくない。・・・透析せずに、在宅で、なるべくもとの生活に、と希望。・・・・・・」
というわけで、結局のところ、透析を開始することはなく、そのまま御自宅に帰られることとなりました。
退院直後の7月6日、御自宅へ伺いました。二間続きの和室はふすまを取っ払って奥の部屋にベッドをしつらえ、手前の部屋は台所にすぐ続く居間、私達は庭から直接この居間に上がりこみます。ベッドの上の幸広さんは、入院前と比べるとげっそりと痩せ、目はぎょろぎょろと飛び出して見えました。むしろ反応はよくなっていて、「かあさん、かあさん」と声に出して呼ぶのが聞かれました。言葉がまったく出なかったわけではなく、言葉を出す元気がなかった、ということだったのでしょうか。しかし、「かあさん」以外に意味の取れる言葉を発することはやはりありませんでした。
退院直前病院入院中の検査値としては、腎機能はさらに悪化していました。腎臓・透析の専門の医師であれば、こうした検査値も比較的目にすることもあるのかもしれませんが、我々のような他分野の医師では、もうお手上げのような数字です。もちろん、患者さん御自身の状態がどうか、ということが問題なわけで、数字だけでものを言うことはできないのですが、単純に、「めったに見たことがない数字」なわけです。不正確な言い方にはなりますが、こんな検査結果になっても、人間は生きていられる、腎臓は何とか働いている、ということを、当時まだ若かった私は経験したことがなかったのです。
入院中の担当医の方針で、水分や栄養分はなるべく「控え目に」していました。げっそりと痩せていたのはそのためでもありましたが、これは、腎臓を保護するためにはやむを得ない方針ではありました。腎臓というのは、食べた食事が体の中で使われて、最終的に「老廃物」となった状態で、尿として濾し取る臓器ですから、大雑把な言い方ですが、「濃い」栄養物をたくさんとる、ということは、腎臓に負担が大きくなる。また、水分をたくさん入れてあげても、腎臓がそれに対して十分に尿を作れない状態だと、今度は水分(血液)を体内に回す役割をしている心臓にも負担がかかってきて、体中がむくんだり、呼吸が苦しくなってきたり、という、本人にとってかなり辛い状態になる危険も高い。幸広さんの場合には胃ろうからの栄養でしたから、流動食自体を腎不全の患者さん用の特殊な製品に変更し、それも、極力減量をして、また、水分も一日700ml、という制限のもとで退院してきていました。しかし、お母さんにしてみれば痩せてがりがりになっていく、という、目の前の現実はただただ悲痛なものであり、しかもこれから暑い盛りに向かう、というときに、水分も十分に入れることが制限されている、というのは、非常に辛いことでした。
幸広さんが、この時点で、いわゆる「終末期」であることは、我々には明らかでした。
昨今、我が国では終末期医療・延命治療について議論が盛んに行われており、いささか古い資料ですが、厚生労働省研究班の出した指針によると、終末期、は、「余命3週間」と「定義」されています。しかし、こうした幸広さんのような状況で、「余命」を考えることは非常に難しい。3週間、という具体的な数字が省庁から提示されたことの意味は、我々現場の医療者にとっては非常に重い意味を持ちはするものの、では、余命4週間と思われれば終末期ではないのか、3週間以内と考えてはいたが結果として3週間を超えた場合には終末期では「なかった」ということなのか、様々な問題はつきまといます。幸広さんの場合には、腎臓の機能がどんどん悪くなっているが、透析という治療の選択は行わず、これから我々は、十分な検査が行える環境でもなく、始終の状態の変化を観察できる環境でもない、在宅、という現場の中で、「いかに居心地が良く、苦痛のない生活を行えるか」ということを中心に考えていかなければいけない、という意味では、終末期、と言うべき状態だったのです。
私自身辛い立場でしたが、お母さんには何度も、別室に移って、透析をしない以上は腎臓の働きはもうぎりぎりで、お亡くなりになることを覚悟に入れて下さい、との旨お話は繰り返しましたが、お母さんは、話としては耳に入ってはいても、現実に息子さんが「死ぬ」ということがイメージできていたようには見えませんでした。もっとも、そんなイメージができる方がそうそういるものではないのだろう、とも思います。もっと目先の問題、げっぷやしゃっくりが出る、とか、床ずれの処置、とかといったことの一つ一つの方が、お母さんにとっては重要でした。
既に書きましたが、栄養や水分をどのくらい入れたらいいのか、ということは、すぐに問題になりました。あえて露骨な表現をすると、我々にとっては、少しでも永く「もたせる」ためには、できるだけ絞った方が良いだろう、と思われましたが、お母さんにとっては、栄養や水分をせめてたっぷり入れてあげる、ということはとても大切なことだったでしょう。こうなってくると、「本人にとって良いこと」と「お母さんにとって良いこと」の区別も難しくなってきます。ましてや、御本人とは意思疎通も困難です。訪問看護婦もほぼ毎日伺い、少しずつ意見を聞きながら、徐々に、お母さんの望む方向へ、色々なことが変わっていきました。
床ずれもその一つでした。痩せが進んでいって、8月の後半頃からは、腰の辺りに床ずれが目立ち始めました。初期の段階の床ずれでは、今の治療の仕方では、ガーゼを使うとかえってくっついたりこすれたりすることもあって、あまりガーゼを使わないで、柔らかく保護してなるべく触らないようにするのですが、お母さんはどうしても、毎日観察をして、何がしかの薬を塗って、ガーゼを当てる、ということをしたい。・・・あるいは、投薬についてもそうでした。以前から飲んでいた何種類かの薬がありましたが、腎機能がいよいよ悪くなってきた際にはむしろ止めた方がいいとも思われましたが、今まで良かれと思って使っていた薬を止める、ということは、お母さんにはなかなか受け入れにくいことでした。こうしたことの一つ一つ、お母さんの判断に任せるところは任せ、引くところは引く、という形で日々は経過しました。床ずれにしても、結局どんどん悪くなってしまいましたが、お母さんはきっと、私の言うとおりの処置の仕方にしたときにどんどん悪くなった、とお考えだったろうと思います。・・・
どうやら夏は過ぎ、9月に入って少し涼しい日も出てくるようになりましたが、幸広さんの状態はどんどん低下していました。もう体をつねったりしてもほとんど反応がなく、いつでもうつらうつら目をつぶって寝てばかりいるような状態でした。9月の後半になると、熱も38度近くまで上がったり、また下がったり、といった風になり、解熱剤も使用したり、その都度お母さんの心配に合わせて臨時に往診をしたり訪問看護で伺ったり、という体制となりました。9月21日に伺った際にはもう呼吸の仕方も肩で息をするようになってきており、いよいよお亡くなりになるのが近い、と思われましたが、そうした状況になっても、「あと何日、何時間」などとはわからないものです。以前にはみられたこともあった眉間の皺もなくなり、表情はとても穏やかで、苦しい様子は少しもありませんでした。
9月24日の夕方、お母さんから「呼吸の様子がおかしい」と電話が入り伺った際には、はっきりと下顎での呼吸となっており、お母さんにも、もう最終末期の息の仕方で、看取りが近い旨お話ししました。もう今日か明日、いつ呼吸が停まってもおかしくない、なるべく苦しいことはしてあげたくない、そっと見守っていて上げてください、と。
お母さんの不安を考えると、一人きりで息子さんのそばにいて何もできない、という状況は辛く、入院してもらって病院で見てもらう、ということもお話しはしましたが、何もできないのであれば、このまま家でみてやりたい、とおっしゃいました。
翌、9月25日、ずーっと長い間通っていたデイケアセンターの看護師さんが、だいぶ具合が悪そうだ、ということで見舞いに伺っているときに、看護師さんの目の前で、ふーー、と最後の息をついて呼吸が停まった、ということです。そのときにはちょうど、訪問看護ステーションの所長も一緒に行っており、付き合いの長い年配のベテラン看護師2人とお母さんは、3人で涙にくれ、慰め合ったそうです。連絡をもらった私が約30分後に伺った際にも、まだ3人は涙顔でしたが、幸広さんはとても安らかな顔をされていました。
いつでも看取りは切ないものですが、お母さんが息子さんを看取る、という場面はそう多くはなく、最期の最期まで終末期、危篤状態を受け入れることの難しかったお母さんのお気持ちを考えると、今こうして振り返って文章を書いている私も涙ぐんでしまいます。
約3ヶ月、確かに長い終末期でした。
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