在宅看取りの記録
Ⅲ 大変だった方
○○静枝さん、享年97歳「予想がつかない死」
○○静枝さんは、97歳女性の方です。約12年前に脳梗塞、心筋梗塞で入院加療。その後自宅退院していましたが、肺炎を何度か起こし、食事も進まなくなってきたため、9年前に胃ろうを造られています。私が訪問診療でこの方の所に伺うようになったのは、約3年前からでしたが、その時点では既に、唸り声はあげるものの喋ることはできず、両足は股関節・膝関節がしっかり曲って伸びず、ベッド上寝たきりで、浴槽を運び込んで入る入浴サービスの時以外、ベッドから離れることはない状態でした。
70歳を越える娘さんが主に介護をしていましたが、いつから喋らなくなったのか、いつから動けなくなったのか、具体的なことはもうよくわからない、段々にそうなっていった、とのこと。おそらく、胃ろうを造って、口から食べることもしなくなり、口を動かすこともなくなり、いつの間にか喋らないことが当たり前となっていったのでしょう。
それでも静枝さんは、表情は豊かで、と言っても、笑っているのか怒っているのかよくわからず、私の顔を見ると興奮気味に手を握り締めてつねってくる。両手とも力はかなりあり、脳梗塞、ということになっていましたが、麻痺があったわけではなさそうに思われました。
静枝さんは、私の伺っている約3年の経過の中で、やはり肺炎を何度か起こし、入退院を繰り返していました。こうした超高齢の方で、動かすのも大変、本人の意思確認もできない状態であれば、御家族が納得されれば、肺炎であっても入院はせずに自宅にいるままで、抗生剤の注射をしたり点滴をしたり、という治療を行いながらみていくこともありますが、それはやはり、24時間完全管理して、色々な検査や処置も可能な病院入院には敵わないやり方ではあります。静枝さんの場合、娘さんは熱が上がって肺炎の疑いがある場合には、入院での加療を望まれ、その都度何とか良くなって退院をしてきました。しかしそれを繰り返すうちに、いっそう痩せ、いっそう痰のからみは強くなり、衰弱していく様子が見てとれました。
最後となった入院から退院してきたのが1月中旬のことでした。肺炎は治癒したわけでしたが、呼吸状態はあまりよくなく、痰のからみも強く咳き込むことも多く見られ、かなり衰弱が進んだように見受けられました。この時点で、私はほとんど「最後の賭け」のようなつもりで、それまでは1日800キロカロリーだった胃ろうからの栄養注入を、1000キロカロリーにアップしてみて、少しでも衰弱が改善するかどうかを見てみる提案を娘さんにしました。
結果としては、これは失敗でした。このことが最終的な引き金になってしまったのかもしれません。栄養量を増やしたところ、痰のからみ、咳き込みは余計強まり、全身にむくみが見られるようになり、すぐに元のように1日800キロカロリーに戻しました。
そうしたどこかの隙に、仙骨部に褥創ができ、以前どおりの800キロカロリーでも全身のむくみは引かず、やはりいつでも痰が咽喉の辺りでごろごろと音を立てるようになり、といったことが続き、お薬での調整も行ってはいましたが、結局のところ、もう体としては、過量の栄養分や過量の水分を受け止めることはできない状態、と判断されました。高齢の方の場合、心臓もだいぶ弱ってきており、たくさんの水分や栄養を入れてそれが血となったとしても、心臓がそれを回し切れない、回し切れない分が余ってむくみになってしまう、ということが起こりがちです。従って、心臓に負担をかけたくない方には水分制限をしたりもするわけですが、そうすれば今度は容易に脱水をきたしてしまう。一方、お尻の褥創を治そうとすれば、肉が上がり、皮膚が上がってこなければならない。とするためには、その分多くの栄養を入れなければならない。あちらを立てればこちらが立たず。八方塞がりの状況の中で、細かい隙間を縫っていく、といった状態になってきました。
これが、老衰、ということだろうと思います。
私は、老衰、というのは、坂を転がり落ちていくようなイメージよりもむしろ、道が段々に狭くなっていって、やがて、平均台の上、細い刃の上、を歩いていくようになる、というようなイメージが近いのではないか、と思っています。若いときには、例えばいくらか無茶をして、体が右や左に傾いたり、歩調が乱れたりしても、道幅が広ければ落ちることはない。それが、段々に無茶が利かなくなる、少しの風邪、少しの下痢、少しの脱水、といったことで、崖から落ちてしまうことになる。今、表面的に元気に見えたとしても、体としての融通、許容範囲が著しく狭くなってしまう状態が、老衰であろうと思います。
静枝さんを見ていると、「食べられなくなる」、「食欲がなくなる」というのが、体の反応として起こるべくして起こることなのだ、ということをあらためて思わされました。一日当たり800~1000キロカロリー、800~1000mlの流動食を入れていても、むくみが出てきて呼吸も苦しそうになる。水分量も控えて、流動食を減らして、最終的に、3月の下旬頃からは600キロカロリーの流動食と、水分は食後にチューブを流す程度、となりました。ですから、水分の総量としても1日650ml程度、それ以上増やすとすぐにむくみが強くなったり、呼吸が苦しそうになったりする。栄養や水分というのは、たくさん入れればいい、というものではない、よくよくになれば、体が受け止めるだけの量、というのは、必然的に制限されてくる。
静枝さんの場合には、私が伺うようになった時点で既に6年間に渡って胃ろう栄養を行っていて、口からは全く食べていなかったわけですので、論じても無意味なことではありますが、仮に胃ろうが入っていなくて口から食べられていたとすれば、もうこの段階で、静枝さんは食べさせようとしても、口をあけず、あるいは口に入れても飲み込まず、という状態だったことでしょう。それが体の自然な対応、反応であったことだろうと思います。
しかし、胃ろうチューブがあれば、入れることができてしまう。確かに、600mlであれば何とかぎりぎり注入は可能でしたから、「可能な限り入れてあげればいい」という考え方に立つのであれば、何も問題のないことであるとも言えます。しかし一方で、褥創はどんどん悪化し、そこから失われる水分やカロリーを考慮すれば、あるいは、褥創を治す方向で考えるとすれば、一日600キロカロリーではとても足りない、ということもわかっていました。事実、私はこの頃は一週間に一度くらい訪問していましたが、訪問する度に細く、小さくなっていくのが見てとれました。足りない分は、それこそ骨身を削っている。
誰でも病気をして入院をして、絶食で点滴をしたり、治療をしたり、とすれば、痩せていくことになるのが普通です。しかし、それは、治療が終わればまた段々に食べる量が上がって、少しずつなりとも回復をして、また太っていく、ということが期待されるからこそ、の一時的なものです。しかし、静枝さんのような場合、これからまた回復をして、流動食をたくさん入れて、太っていく、ということはまず期待できない。もちろん、奇跡として御家族が期待をする、ということはあるのかもしれませんが、医者として正直なところを言えば、こうしたケースでは「回復」という言葉はまず使わない。
足りない、とわかっている栄養を入れ続け、治らない、とわかっている褥創の治療を続ける、というのは、我々にとっても辛いことでしたし、何より本人にとって苦痛でしかないのではないか、と、私には思えました。いつ伺っても、静枝さんは眉間にしわを寄せ、咳き込み、苦しそうな唸りを上げるようになった。あえてきつい言い方をすれば、生殺しのような日々に思えました。特に、褥創の治療をするには、静枝さんの体を横に向けて、数分間、傷を洗い、軟膏を塗り、ガーゼを当てる、というようなことをしていたわけですが、膝や股の関節も固まっていて、静枝さんにとっては横を向くだけでも辛く、また、骨まで露出したような褥創を洗うこともかなり痛いことだったはずであり、その間もずーっと唸り声を上げ続けていました。
私は、娘さんには何度も、今の状態が老衰で終末期であることを説明し、御本人の苦痛を考えれば、胃ろうの栄養量をもっと控え、極端に言えば水分だけ、として、褥創の治療も例えば被覆剤で覆うだけ、ラップで覆うだけ、などにしてなるべく処置の回数を減らす、というようなことでもいいのではないか、とお話ししました。しかし、目の前に胃ろうチューブがあるのに栄養を入れない、創があるのに治療をしない、ということは、娘さんにとっては受け入れ難いことなのでした。
別の方の項でも触れましたが、私は、高齢の方が食べられなくなってきた場合(特に改善できるような原因が見つからない場合)に採るべき対応として、御本人や御家族の方に、次のような4つの選択肢としてお話しをすることが多いです。
①食べられない原因を追究するため、あるいは、本当に食べられないのかもう少し時間をかけて確かめるためにも、どこか病院に入院をお願いして検査、治療をしてもらう。胃ろうの造設、ということも、入院してあわせて考える。
②栄養をきちんと入れようと思えば、自宅でも出来る方法としては、鼻か口から管を入れて、流動食を胃に入れる、という方法をやってみる。
③足りないことは覚悟で、末梢からの点滴を行う。
④老衰である、ということが納得されたのであれば、点滴もせずに、御自宅で食べさせる努力だけ続けて、看取ってあげる。
②を選ばれる場合はそう多くはありませんが、どれを選ばれるかは勿論個々の状況によって違いはするものの、結局のところは御本人あるいは御家族の「好み」によるもので、特別な根拠のあるものではないようです。好み、という言い方は変でしょうか、「人生観」とでも言うべきでしょうか。在宅訪問診療の現場では、特にこうした老衰の場合には、その状況になって御本人の意思を確認するということができない場合がほとんどですので、御家族にうかがうことが多いですが、もちろん、御本人の意思を推測する、ということはあるのでしょうが、最終的には御家族がどうしてあげたいのか、という、「好み」の問題になっているように思います。
医者の言い回しとして、natural courseという言い方をよく使います。日本語にすれば、自然な経過、ということでしょうか。十分に高齢であって、特に目に見える異常がなく食べられなくなってきた場合、「老衰」という言葉が納得できるような状態である場合、きちんとお話をすれば、「自然に・・・」という言い方をされるご家族は多く見られます。医者からすれば、こうした場合のnatural courseとは、点滴など医療行為を行わない、④の選択肢を指すことになりますが、一般の方にとっては必ずしもそうではなく、「自然に」と言っても③のように点滴だけを希望される場合もあります。しかし、少なくとも、「自然に」といった場合には、①や②のような経管栄養を選ばれることはありません。
静枝さんの場合には、もうずっと以前から胃ろうが造設されており、老衰の看取りとしての選択の余地はなかった、胃ろうから栄養・水分を入れ続ける、ということが、唯一の選択肢になってしまった、と言うべきなのでしょう。
どんどん体が小さくなっていく、という印象は持っていましたが、こうした状況では、いよいよ最期という予測もまったくつきませんでした。カルテを見直してみると、私は5月末頃から、「胃ろうをこのまま続けていても、もう2-4週間か?」、などと書いています。結局最期は、7月10日の早朝、「呼吸が止まってます」と娘さんから電話が入りました。20分ほど後に私が駆けつけたときには既に、静枝さんの両手は、娘さんの手できちんと組み合わせてありました。娘さんにとって、十分に手を尽くした末の最期だったことと思います。朝方起きて見てみたら呼吸が止まっていた、と。その2日前、7月8日に私は訪問しているのですが、誰もが十分予想していながら、誰にとってもまったく予想がつかない、突然の死でした。
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