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​在宅看取りの記録

Ⅲ 大変だった方

○○千尋さん、享年90歳「生と死の境目の、不確かな領域」

 ○○千尋さんは、私が前任者から引き継いで訪問診療を始めた時点では、もう全く会話もできず、目は開けているものの視線も合わず、両足は交差したままこわばって、手も縮こまって動かず、申し訳ない言い方ですが、ベッドの上でただ息をしているだけ、という風に見えました。右胸には、IVHという栄養を入れるための点滴が常時刺さりっぱなしになっており、鼻からは在宅酸素を流し続け、おしっこをとるカテーテルの管も入っており、口からの食事や飲水は一切なし、という状態でした。
 はじめて私がお宅に伺ったのは、ある年の11月、バイパスから少し山を上がった上の、畑が広がる地域の中、住宅が何件か並んだ中の、新しい綺麗な一軒が千尋さんのお宅でした。聞いてみると、周辺は皆同じ苗字のお宅ばかりで、本家分家が集まっているそうで、千尋さんは、娘さん、そのまた娘さん、ひ孫たちと同居しておられる、女系の一家なのだそうです。
 日中我々が伺うと、まだ少女のように見えるかわいらしい孫さんと、そのお子さんの二歳位の男の子がいつもおられました。連日訪問看護も入っていましたが、ほとんどの介護はこの孫さんと娘さんが全て上手にこなしておられました。
 前任者からの経過報告を見ると、「57歳頃、骨髄炎にて右膝関節機能全廃。78歳、脳内出血。85歳、発熱で入院後、訪問診療開始。87歳、在宅酸素開始。88歳、点滴確保が困難なため、入院にてIVHとなる。・・・」となっています。その後も発熱や、腎機能悪化などを繰り返していますが、入院はせずに、在宅で抗生剤の投与を頻回に行っていました。
 こうした過程のどこからか、自力で起き上がったり、車椅子に乗ったり乗せたり、ということや、口から食べる、ということ、あるいは、喋る、ということなどが、徐々にできなくなってきて、最終的には、私がはじめて伺ったときのように、ただ息をしているだけ、のような状態になっていたのでしょう。
 はじめて診察をする立場としては、例えば、起こすことは可能なのか、とか、口から少しの水を飲むことは可能なのか、とか、初対面として気になることはいくらもあるのですが、そうしたことは皆、御家族としては「昔はできていたけれど、いつからかできなくなった。結果として、色々な管が入り、ベッド上で寝たきりとなり・・・」ということなのであり、いきなり事情のわからない者がアグレッシブにあれこれをいじくることがためらわれます。孫さんも、例えば、「いつ頃まで外に出ていたのですか」などと少しずつお尋ねをしても、正確に覚えているわけでもなく、「5-6年前には外に出てたかなあ・・・」というくらいで、「段々に、段々に、こうなってしまって」いるのです。医者として、積極的にできることは乏しく、前任者の出していた処方をただ機械的に継続しておくことから始まるのみでした。処方と言っても、IVHの点滴の中身だけで、口からは何も食べていませんから、薬の出しようもありません。何か問題が起こったときには、点滴から薬を入れる、ということになります。
 IVHの点滴は、特に器械などを使わず、大まかですが、24時間かけて一袋が終わるように調整されていました。御家族が、朝方から午前中くらいのところで、大体終わりそうになったら次の袋に交換するようにしてもらっていました。これが千尋さんの栄養の全てで、口からは何も食べも飲みもしませんから、胃も腸も全く使われていず、それでも、10日から2週間ごと程度には、少量の便が出はしますがほとんど出ることがありません。尿の方は管が入っていますから、朝に御家族に捨てて頂く。介護、という意味では、排泄と食事にほとんど手がかかりませんから、ある意味では「楽」と言えたかもしれません。一般的には、ご高齢の方で口から物を食べることができなくなる、というと、「飲み込む」ことが難しくなるケースが多いので、そうした場合には、経管栄養、と言って、鼻から胃まで管を通して流動食を入れたり、あるいは、手術でおなかの表面に穴を開けて胃に直接つながる胃ろうという管を入れて流動食を入れたり、という方法がとられます。かめない、飲み込めない、としても、少しでも本来の形に近い栄養摂取の形としては、IVHという点滴よりは、経管栄養の方が勧められるところではあります。しかし、千尋さんの場合にはIVHが入っていました。なぜ、と言ってみても仕方ありません。そうするだけの必要があったのでしょうし、今からこの状態の方に新しいことをする(胃瘻を造る)、ということは、いずれにしてもためらわれることでした。
 私自身は、こうした状態の方の診察・管理というのは、ほとんど経験がありませんでした。IVHの長期管理は経験があります。尿のカテーテルも、在宅酸素も、もちろん経験があります。あるいは、意識状態も不明で、コミュニケーションもとれず、反応もほとんどない、という方もいくらも経験がありました。しかし、千尋さんのように、それらが全て同時に、という方は滅多にない。意思表示もできず、反応もほとんどなく、それでなお、IVHの点滴で栄養を流し込んでいる、という方を、ほとんどみたことがなかったのです。
 なぜ、「こんな状態」になってまで、点滴で栄養を入れ続けることを選んだのだろう。・・・・・・申し訳ないですが、千尋さんの所に伺うたびに、そう思っていました。千尋さんは、ほとんどいつも目を閉じて、眉間に皺を寄せて、いやそうな表情を浮かべていました。呼びかけて揺り起こすと目を開けるのですが、視線は合わない。しばらくするとまた目を閉じている。何か話しかけても表情は変わらず、いつも不愉快そうな顔ばかり。もう食べることも飲むことも拒否しているにも拘らず、自動的に点滴から栄養を入れられる。自分で点滴を引っこ抜いたり、ということも、手が動かないからできない。何もできることがない、ただ息をしている、それだけ。
 もちろん、IVHを始めた際には、もっと意思表示なり反応なりもあったのかもしれません。それもこれも、徐々に、段々に、衰えていって、誰もどうすることもできなかったのかもしれません。新参の自分のような者が、この方の人生、御家族の選択についてとやかく言える筋合いのものではない。私は、千尋さんの現状について、悲惨さを感じ、できることなら点滴を終了してしまいたい、と思うこともありましたが、果たして御本人が本当のところどう思っていたのかはわかりません。御家族にしてみれば、私などが読みきれない微妙な表情の変化なども読み取り一喜一憂することもあったのでしょうし、息をしているだけでもいいから生き続けていて欲しい、というのももちろん自然な感情であったと思います。・・・・・・こんな風に、私の考え、というか、感じ方は、千尋さんの所にお訪ねしている間中、こんな状態でいいのだろうか、何か少しでもできることはないのだろうか、でも私が今から口を出す立場でもないのだろう、・・・という堂々巡りを続けていました。
 医者と患者、とは言っても、もちろん人間同士の付き合いです。この場合には、具体的にお話をしたり、というのは主に御家族との付き合い、ということですが、関係の浅いところからいきなり生き死にについての突っ込んだ話をするわけにもいきません。御家族からすれば、前任者が辞めた、というこちら側の都合だけで、御家族が希望したわけでもなんでもない新しい医者が突然来ることになった、というに過ぎません。また、その方の今までの人生、生活についての知識も何もないまま、現状のみを見て、悲惨であるとか幸福であるとか、という価値判断をすることは本来戒めなければならないことであるはずでした。御自宅へ入り込んで、その方の生活の場に入り込んで診療を行う在宅医療の立場であればなおいっそう、そうした注意が必要なのだと思われました。
 千尋さんの体の状態としては、医学的にはなんとも言いがたい状態でした。何度も書いているとおり、全くのベッド上寝たきりで、意思表示も全くできない、いくつもの管を体に入れている状況で、痰はいつでものどの辺りでごろごろ音を立て、管で取っている尿も浮遊物が混じったりする。血液検査上は、貧血・低栄養、腎機能は徐々に悪化、熱はしょっちゅう上がったり下がったりを繰り返していました。特に何という病気だと言うことは難しく、熱が上がるたびに、「肺炎」とも「気管支炎」とも「尿路感染症」とも、点滴が長期入っているため「敗血症」ともなんとも断定できることもなく、前任者がやっていたことを急にやめるわけにも行かず、とにかく抗生剤を点滴から、あるいは、筋肉注射として入れる。効いているのかどうかもわからないが、数日で熱が下がると抗生剤もやめる。こうしたことがあるたびに、少しずつまた「体力」が低下する・・・といったことが、果てしなく繰り返されていました。
 人間の、あるいは、生物の尊厳、というものについて、いくらも思いを巡らせました。少なくとも、人間以外の生物で、千尋さんのような状況になっても生命を維持しているケースはないでしょう(特殊な実験動物のような場合は例外でしょうが)。そもそも尊厳、などということは、人間以外の生物に考えるべきものではないのでしょうか。
 脳死、ということが盛んに議論を続けられてきました。人間の生命の終わりを、どこで判定するのか、という、すこぶる学問的な話題であり、これは重要なことには違いないのですが、もっと卑近には、あるいは、非学問的には、動けなくなった、食べられなくなった、意思表示ができなくなった、といったような事象のどこかに、生命の終わりはある。少なくとも、人間以外の生物に関してはそうである。○○千尋さんの生命は、今後「回復」ということの期待もまず持てず、事実上は終わっている、と、少なくとも、臨床の医師としては考えてしまいます。
 しかし一方で、こうした考えに対する反論も、いくらも自分の中には用意されます。それでは、いわゆる障害者や精神遅滞、といった方々も、死んだも同然、ということになってしまうのか。人間以外の生物と比較するのであれば、足の骨折でもした多くの動物は、自分で食物を探すことができずに死んでいくことが普通である。足の骨折をして動けなくなった人間も、死んだも同然、と見なしてよいのか。人間が人間たるゆえん、他の生物と一緒にできないゆえんは、まさに、骨折をしても「助け合う」ことができる、障害があっても「生き続ける」希望を持ち、それが可能なように「助け合う」ことができる点にあるのではないか・・・・・・
 しかし、現実に我々臨床医に湧いてくる思い、というのは、そうした「一般論」、というか、学問的な、あるいは、法律的な、とでも言いましょうか、きちんとした線引きを要求するものではない。具体的に一人一人の患者さんに向き合ったときに、その方についてどう考え、どう判断を下すべきか、という、すこぶる個的な私的な経験を積み重ねて、我々の思いは形作られていく。もちろんそのバックボーンとして一般論に対する知識や考察はあるとしても、です。上に、「法律的な」と書きましたが、恐らく法律家の仕事というのは我々の仕事に近いのでしょう。条文そのものはきちんとした線引きであったとしても、一つ一つの事例というのは、条文どおりに当てはまるものなどほとんどありえない。個々の状況を勘案して、解釈を加えていくしかない。千尋さんが、一般的な常識として「死んで」などいないことは明らかです。しかし、生と死の境目の、不確かな領域に足を踏み入れていたことは確かなように思えるのです。
 どこからが、最終局面であったのか、あまりに頻繁に熱を出したり血尿が出たり、ということがあり、はっきりはしません。5月、ゴールデンウィークが明けた頃、38度台後半に熱が上がりました。解熱剤の座薬は御家族には処方してあり、適宜使用したり、在宅酸素の量を上げたり、ということは、御家族の判断でされていました。それでも熱が落ち着かず、苦しそうな場合に、抗生剤をやって欲しい、と希望されます。この頃には、御家族は入院までは望まれず、家でできる限りのことをしてやりたい、というのが意向でした。入院も幾度となく繰り返し、本人も家族もその辛さは十分承知していたようです。5日程、いつもの抗生剤を連日注射して、いったん熱が治まって、すぐにまた熱が上がり、同じ薬は使いにくく、別の抗生剤に切り替え、また熱が下がり、また熱が上がり、・・・そんなことを繰り返して、5月が過ぎ6月になりました。6月6日、いったん熱が落ち着き抗生剤を休みましたが、6月10日を過ぎるとまた熱が上がり、13日に検査をすると、炎症反応は上がっているもののそれ程でもない。むしろ、貧血がどんどん進んでいてそのために熱が上がる、ということも考えられました。IVHの点滴の量を調整したり、ということは続けていましたが、貧血まではどうしようもありません。御家族には、輸血が必要な状況であることもお話ししましたが、輸血をするためには入院をしてもらわないとなりません。しかし、入院まではどうしてもしたくはない、家でできることだけで・・・という意向は変わりませんでした。
 穿った見方をすれば、千尋さんの場合、「入院をしないでできること」というのが、生き死にの線引きになっていました。医者として言えば、患者さんの年齢や状況を考慮に入れずに、死なないために「徹底的に」治療をする、ということになれば、まだまだ治療の余地はあったのです。御家族にとって、「最期まで家で」、ということが、千尋さんの尊厳を定めていたことになりました。
 このときには、抗生剤も再開はせずに経過を見ていましたが、結局抗生剤の使用に拘らず、熱は上がったり下がったりを繰り返していくのみでした。推測でしかありませんが、どの段階からか、抗生剤の使用は病態に影響を与えなくなっていたように思えます。しかし、御本人の呼吸は徐々に苦しげになっていきました。
 6月27日、診療に伺ったときには、呼吸の仕方が口をすぼめて、ぷーぷー、という様子のものに変わっていました。尿量も減ってきており、そろそろ最後のときが近いことを思わせました。孫娘さんはいつもおられ、お話はしていましたが、娘さんは日中仕事に出ておられ、そう度々はお目にかかれませんでした。このときには、もういよいよ危ない旨、お電話で娘さんにお話をしました。呼吸が苦しそうなので、何とかして欲しい、と、娘さんはおっしゃり、この頃から、終末期の医療として、「苦痛を去る」ということを優先して考えていくことになりました。
 血圧を下げる恐れもあるので、普段であれば高齢者に使わない強い解熱作用の座薬や、呼吸を抑制する恐れもある鎮静剤の座薬なども処方し、訪問看護で連日伺いながら、御家族にはそれらを使うことの「危険性」も十分お話しながら、それでもなお苦痛を取るほうが優先、ということを理解してもらいながら、少しずつそれらの薬を使っていきました。
 7月3日、また呼吸の様子が変わった、ということで診療に伺うと、我々が下顎呼吸、と呼ぶ、いよいよ最終末期の呼吸の仕方になっていました。その日の朝に座薬を使ってしばらくしてから、呼吸の回数も減った、とのことでした。もう1-2日しかもたないでしょう、とお話し、会わせておきたい方々は皆集まっていただくようお願いしました。私は正直その晩にお亡くなりになるものと考えていました。
 こんな夜は、医者の方も眠れないものです。この頃私は、妻が入院中で、2歳になったばかりの娘と2人で暮らしていました。深夜に呼び出されたら、娘はどうしようかな、と気にしていましたが、予想を良い方に裏切って、その晩は越えました。
 翌、7月4日、午前中に伺うと、呼吸は相変わらず下顎呼吸で、もう今にも停まりそうなのですがまだしっかりしている、いずれにしても長くはない、と思われました。血圧もぐっと下がっており、尿もほとんど出ておらず、全身にむくみが出ていましたので、IVHの点滴のスピードも落とすことにしました。
 最終的に、その日の夜7時40分、御家族から、呼吸が停まった、と連絡が入り、8時過ぎに伺いました。私の娘はもう夕食を済ませてうとうとしていましたが、置いていくわけにも行かず、車に乗せて向かいました。
 御近所なのでしょう、一族の方々が既にたくさん集まっていました。いつもいるひ孫さんと、そのほか、同じような年頃の子供たちが、ベッドの上の亡くなった婆ちゃんの上に乗ったり、ベッドから飛び降りたりしていました。私の娘は、異様な雰囲気に固まったまま泣くこともできずに立ち竦んでいました。御家族の方はもう覚悟はしておられ、孫娘さんは涙を浮かべていましたが、娘さんは、さっぱりした表情で、私に、娘のための背負い紐を貸してくださいました。千尋さんは、午前中に見たときと同じ、既に「乗り越えて」しまったような、とても穏やかな表情をしていました。それだけが、救いのように思われました。
 ご臨終を告げ、別室に布団を整えてもらい、男手で、千尋さんの体をベッドから布団に移しました。恐らくは、ベッドから降りた婆ちゃんを、子供たちは初めて見たのだったでしょうか、この時になってようやく、ひ孫たちは何か特別なことが起こったことに気づいて、次々と大声で泣き始めたのでした。
 人間の場合、こうして、「家族」の中で継がれていく生命もある、そうも思いました。

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