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​在宅看取りの記録

Ⅳ 予想していなかった方

○○智明さん、享年88歳「死因なんてどうでもいい・・・」

 ○○智明さんは、初めから呼吸が苦しく在宅酸素を使っていた方で、肺の病気が進行していって呼吸はどんどん苦しくなることが予想され、その意味では初めから「終末期」と思われた方でしたが、しかし、最期は突然、予想もしない形で訪れました。
 始まりは、多くの方と同様、「介助なしで歩くことは困難、通院するのが大変」ということで、近くの総合病院呼吸器科の医師からの紹介状を持って、奥様がある年の11月4日に当時私の勤務していた医院の方に来られ、4日後の11月8日、御自宅の方に伺いました。
 おうちは、医院から川を挟んで対岸、歩いても7-8分程度の所で、御夫婦2人暮らしの小ぢんまりとした平屋のお宅でした。智明さんと奥様、それに小さな白い室内犬の二人と一匹暮らし。玄関を開けると右手に居間、それに続いて寝室が、襖を取っ払って続いてあり、寝室のベッドの上に、智明さんは横になっていました。居間と寝室は川の方に向かって一面サッシになっており、いつ伺っても光がたっぷり入る明るいお部屋でした。枕元には在宅酸素の器械がしつらえてあり、そこから伸びるチューブで、智明さんは鼻から常時酸素を流していました。紹介状の主たる病名としては、肺気腫、肺線維症、というもので、肺がかなりの部分「壊れて」しまっており、しかもそれが徐々に進んでいくという病気でした。
 智明さんは、その時点で、一目見てかなり痩せておられ、呼吸も浅く、荒く、「ハッ、ハッ」と、話しながらも細かい息継ぎが入るような、典型的な「肺病」という印象の方に思われました。もっとも、表情はそれ程苦しげでもなくむしろ明るく、横になって酸素を吸っている分にはいいんだが、起きて動こうとすると体がだるくてだるくて、とおっしゃる。それも、「息が苦しい」というよりも、「体がだるい」、ということが主のようでした。起きて歩いてもらってみると、何とか壁を伝って部屋の中くらいは動けるようでしたが、やはり辛いのですぐにベッドに戻ってしまう。お風呂に入るときだけは、ヘルパーさんに手伝ってもらって週に1回は自宅のお風呂に入っている、とのことでしたが、それ以外はほとんどベッド上で、トイレもベッド脇のポータブルトイレを使っている、ということでした。
 肺、呼吸器の病気の方、というのは、たくさん呼吸をしたり、咳をしたり、ということに、思いのほかエネルギーを使うこともあり、結構食べているつもりでもどうしてもげっそりと痩せていくことが多くみられます。また、慢性的に酸素が「薄い」状態に体の方も慣れてきてしまうので、検査上は酸素が足りないように見えても、本人はそれ程苦しさを自覚していない、ということもあります。私は、通常でしたらこうした状況の方であれば、なるべく起きて、歩いてもらったり外出などもするようにして、生活自体を「動き」のあるものにするように仕向けたいところなのですが、智明さんの場合には、体の動きそのものにはあまり問題がなく、動くことが「苦しい」ということがはっきりしていましたので、積極的に「動く」ということを勧めることはできませんでした。リハビリテーションの分野として、呼吸リハビリテーション、というものもあります。正しい(楽な)呼吸の仕方の指導、であったり、呼吸筋といわれる上半身の筋肉のストレッチや負荷運動等々があります。しかし、病状が進行してしまった方にとっては、「改善」というよりもあくまで「現状維持」を目指すものとなりますし、もちろんそれでもいい訳ですが、年齢や病状その他を考えあわせると、やはり積極的に勧めにくいと思われました。
 何度か訪問診療をし、訪問看護師とも話し合いをしていく中で、「リハビリ」を進める、というよりもむしろ、生活をどう安定して「楽しい」ものとして送れるか、ということを主に考えていくべき状況だろう、という風に、皆の意見がまとまっていきました。もっとも、「リハビリテーション」自体が、生活を阻害するものではそもそもなく、生活に「沿った」ものなのですから、できる範囲でのリハビリテーションは行うように、徐々に考えていきました。目標としては、せめて日中はなるべく起きて座って生活をするように(ぎりぎりまでポータブルトイレや入浴もできるように、床ずれなどできないように)、そのためには、苦しいときには遠慮なく酸素の量は上げて、楽になったら戻す、という調整は行ってもらうこととしました。訪問看護では、呼吸法の指導がてら御本人の好きだった歌を歌ってもらうように持ち掛けてみると、智明さんは歌うのがもともと大好きだった様で、「その気」になれば、看護師が起こして血圧を測ったり体温を測ったりしている最中、ずーっと歌っているのだそうです。その癖、私が訪問診療で伺った際には、「だるい、苦しいから起きていられない」と寝ていたがることが多く、本当のところはよくわからない。しかし、多くの男性の患者さんが、看護師の訪問のときには「いいところ」を見せよう、とする傾向はあり、逆に医者が行った時には弱々しい風を装うもので、まあ訪問看護師の情報では、歌う様子も、息継ぎが特に苦しいわけでもなく上手な歌唱だったようで、私は「さ程でもないかな」という印象を持っていました。
 智明さんの診療に当たって、当初苦労した点としては、非常にたくさんの病院にかかっていたことがありました。最初に紹介状を頂いたのは、近くの総合病院の呼吸器科からでしたが、よくよく伺ってみると、同じ総合病院の泌尿器科、循環器科にもかかっており、その他、別の総合病院の心療内科、近所の個人開業医として、消化器科、眼科、と、計6つのあちこちばらばらの病院を受診、それも、ここ最近は通院困難だったわけで、奥様や娘さんが薬だけ取りに行く、などの対応となっていました。できましたら、そのそれぞれの診療科から、今までの経過などを書いた紹介状をもらってきてもらえますか、とお願いしたところ、やはりこれは大変な作業で、1ヶ月かかっても全部書いてもらうことはできず、せめて処方されている薬だけでも、と薬局などから情報を集めたところ、併せて18種類の飲み薬と3種類の目薬、その他貼り薬等々をもらっていました。
 かなり昔から言われていることですが、特に高齢者の方の場合、こうした「多科診療」「重複診療」ということは重要な問題です。段々に、医療が専門分化していくに従って、それぞれの専門外の分野については「診療できない」「投薬できない」、と、医者の側から他の専門科を紹介することになる。その度に受診する科はどんどん増えていき、投薬も増えていく。もちろん、この数十年の間、患者さんの側も、「どうせなら専門科の先生に診てもらいたい」という要求が増えていることも確かです。一般論として言い切っていいかどうかはわかりませんが、こうしたことは、患者さんの側も若く、自分の病気についての細かい診断に注意を払い、完璧を期すために「少しでも専門科へ」という方向でよかったのかもしれません。たくさんの診療科に通うだけの、時間的、金銭的な余裕も必要でしょう。日本全体が上り調子で、アグレッシブな時にできてきた習慣なのかもしれない、とさえ思ってしまいます。しかし、今の時代に智明さんのような患者さんを見ると、その矛盾を露骨に感じることになります。本人が受診もできない、もちろん必要な検査もできないわけで、御家族が薬だけ取りに行っているような状況でも、やはり「専門科」を受診していた方が良いのか。その必要があるのか。
 今、「総合医」という考え方が見直されつつあります。私自身はそのはしくれだとは思っていますが、それでも、総合医、ということのはっきりした定義はよくわかりません。一般の方に理解してもらうために大雑把に言えば、あちこちの専門科にかからなくとも、「ひととおりのこと」はは診療できますよ、という医者のことでしょうか。離島などで一人で診療をしている医者を想像してもらったらよいのかな、と思いますが、医者の内部での専門的なことを言えば、では、その総合医が、具体的にどういうスキル(技術)を身に付けているべきか、どういう知識を持っているべきか、ということについての基準は、(実はごくごく身内の間ではある程度ありますが)はっきりとはしていません。「ひととおりのこと」なのです。
 さて、私達在宅訪問診療医というのは、その出発点から、総合医であり、家庭医であります。それぞれのお宅に伺って、限られた器具や限られた環境の中で、できることをし、できないことはできない、と言う。もし、患者さんが、「床ずれができてしまって」という場合、「じゃあ、皮膚科か外科か、近くの病院に行って受診してきてください」と言うだけであればこんなに楽な商売はありません。その先はどうなるか、総合病院の外科にでも行けば、軟膏と処置の方法を教えてくれて、また1週間後に受診に来なさい、ということになるでしょう。寝たきりの方でも何でも、毎週受診を繰り返すことになる。それができるのであれば、最初から「訪問診療」をしてはいません。「熱が出て咳をしている」という訴えがあった際に、「じゃあ、呼吸器の病気ですね、総合病院の呼吸器科に行って、診療を受けてきて下さい。」というだけで済むのであれば、高校生でもできる。医者である必要はないですね。何科の問題であっても、「ひととおりのこと」はできる、というのが、総合医、訪問診療医に求められていることです。
 しかし、そうは言っても、できないことはできません。手術室でやるような手術をするとか、血を吐いていて、内視鏡で止血をしなければ、とか、どうしたって自分ではできないことは山程あります。非常に重篤な疾患の場合、生命に危険があるような状況の場合、病院での検査や治療の方が有益であると判断できるような場合、には、もちろん、病院にお願いすることもあります。その判断をつける目を持つ、ということも重要ですし、それと同じくらい、仮に生命に危険があるような状況であったとしても、御本人や御家族の希望を聴き、どこでどんな治療を望むのか、必要であるのか、を調整し、場合によってはそのまま家で最期まで看取ることもする、ということが、我々の仕事にとっては重要です。
 だいぶ話がそれました。というわけで、智明さんの場合、私が最初にしなければならなかったことは、各診療科での診断背景を了解し、投薬内容を整理することでした。実際、かなりの薬が、現在不要であると思われたり、あるいは、ダブって処方されているのではないか、と思われたりしました。降圧剤(血圧を下げる薬)などは、非常に解釈の難しいところがあります。あえて「高血圧」という病名を、専門科に振り分けるとすれば、循環器科、でしょうか。しかし、降圧剤は非常にポピュラーで、非常に多くの診療科から出されてしまっている薬です。そうした薬を少しずつ整理するだけで、数ヶ月を要しましたが、最終的に、飲み薬は3種類にまで減らすことになりました。18種類から3種類に。これが「体」にとって良かったのかどうかは、無責任ですが、わかりません。
 智明さんの診療で心に残っているのは、河川敷に桜を見に行ったことです。初めて訪問に伺ったのが11月、寒い冬の時期は呼吸の状態もあまりよくなく、また、もともとの肺の状態から風邪を引いたらおそらくすぐに肺炎に進展するのではないか、ということも危ぶまれ、訪問を開始したばかりでもあり我々の方も慎重に過ごしていました。やっと暖かくなって3月、4月になる頃には、智明さん御夫婦と我々との関係も馴染んだものとなってきていました。
 家からすぐの河川敷には、見事な桜が咲いていました。4月11日の訪問時、診療中のお喋りの際、毎年見に行ってたんだよねえ、と奥様が言われたこともあり、じゃあ、今年も行きますか、と、私の方も気軽に受け、とんとん拍子に話が進みました。御本人は一番びっくりした様子でしたが、御自宅には車椅子も携帯用の酸素ボンベもあり、外出してはいけない理由は特にありませんでした。その日は幸い穏やかな暖かな日で、それでももちろん奥様は、せっせとたくさんの上着を着せ、靴下も二重に履かせ、帽子もかぶって、と、智明さんを雪だるまに仕立て上げます。我々は車椅子と酸素ボンベのチェックをしますが、どちらもしばらく使っていない様子で、車椅子は空気がかなり減っていたものの、まあ大丈夫、玄関は看護師と二人がかりで車椅子ごと持ち上げて降ろしました。最初しばらくこそ、智明さんはびくびくした様子でしたが、やがて呼吸も落ち着き、道路を渡って、短い坂道を登るとすぐに河川敷、対岸に満開の桜が望まれました。「ああ、見事だねえ」という智明さんの言葉と、嬉しそうな表情が何よりでした。僅か15分ほど、川に沿って歩いて戻っただけでしたが、呼吸状態が悪くなることもなく、晴れ晴れとした散歩でした。
 実際には、この頃から私はもう「終末期」だと思っていました。智明さんのおられる部屋とは別のお部屋で、奥様にも、もうそんなに長くはないかもしれません、と、少しずつお話しはしていました。カルテを見直してみても、このお散歩に行ったときには、「栄養低下、全身的に少しずつ弱ってきている、としか説明できない。できる内に花見にも連れて行ってあげたい・・・」と記載してあり、少なくとも、もうその次の年の桜は見れないだろう、とは奥様も了解していたことと思います。どこがどう悪い、とも言いにくい、3‐4ヶ月経過を見てくれば、食事量も落ちてきて、少しずつですが痩せていく様子も見てとれ、そろそろ・・・と漠然と思われた、というくらいのことかもしれません。
 そのあと、6月1日、もう一度散歩に出かけました。この時も、私が訪問した際には「体がだるい、だるい」と言っておられたのですが、その前の診療の際に、「天気のいい日にまた散歩に行きましょう」と言っていたことを覚えておられ、もう朝のうちから奥様もはしゃいで、すっかり着替えも済ませて車椅子の準備もしてあるのでした。訪問診療、と言っても、まあこんなものです。散歩に行って車椅子を押す。でも、医者が行ったときでないと散歩にも出られない人もいるのです。この時は、すぐ近くのスーパーで娘さんが働いている、ということで、もうずーっと行ってないから買い物に行きたい、とおっしゃり、夕食の刺身を買いに行きました。残念ながらその日は娘さんはお休みだったようでしたが、奥様は嬉々として、我々をほったらかしで買い物に走り回っていました。智明さんの介護もあって、奥様の方も、ゆっくりと買い物をすることも滅多になかったのでしょう。買い物から帰ると、この日は智明さんは、「アー、楽になった」とおっしゃいました。呼吸が楽になった、というわけではなかったのでしょうが、何かしらが楽になったのでしょう。
 さて、ここまで書いてきたように、私達は奥様も含めて、智明さんの病状が少しずつ悪くなっており、もうそんなに長くはないだろう、という理解はしていましたが、それでもしかし、最期は突然でした。
 6月20日、予定通りの訪問診療に伺った際、奥様は、「最近よく鼻をほじっていて鼻血を出すんです」とおっしゃいました。その時も、少し鼻血が出たあとのようでしたが、ティッシュを鼻に詰め込んでおり、御本人もけろっとした様子でしたので、そのまま診療を終了して次のお宅に向かいました。その2時間ほど後、奥様から電話が入り、「口からたくさん血を吐いた、すぐ来て欲しい」と。急遽予定を変更してお宅へ伺うと、なるほど口の中は血まみれの状態で、どうやら、鼻血が停まらずに、口の中へ回ってしまってそれを吐いたようでした。鼻血の止血としては、既にやっていましたが、ティッシュを詰めて強く圧迫をする、ということを5-10分程行いましたが、どうもはっきりとは停まっていない。そこで、止血剤の薬をガーゼに滲みこませて鼻の中に詰め込み、さらに圧迫すると、どうやら停まったようでした。急にガーゼを取ってしまうとまた出血しなおすこともあるので、夕方くらいまでそのまま入れておいてもらって、またあとで連絡をすることにしてその日の訪問を続けましたが、夕方に訪問看護師に行ってもらったところ、鼻血は停まっており、ガーゼは除去してきた、とのことでした。
 鼻血が停まらない、というのは、まあそう珍しくはないことですが、背景の疾患を疑わなくともいけないケースもあります。智明さんの場合、もともとかかっていた多数の診療科の中には消化器科も含まれており、ここまで触れてはいませんでしたが、肝硬変、肝臓癌の治療歴がありました。肝臓の疾患が進行した場合、出血が停まりにくくなる、ということはありえます。私はその時点まで、呼吸器疾患、肺疾患の方を主体に考えていましたので、肝臓の背景については、投薬は止めずに残してきていましたが、ほとんど念頭に置いてはいませんでした。この時初めて、もしかしたら肝臓の状態もだいぶ悪化しているのかもしれないな、と少し頭をよぎりはしましたが、それでもやはり、とりあえず鼻血は停まった、ということで良しとせざるを得ませんでした。
 その翌日、6月21日午前中、再び奥様から電話が入り、「夕べは鼻血が停まったものの、夕食を食べた後吐いてしまい、水も飲めなかった。今朝も少し食べたが、吐きそうだと言っている」とのこと。緊急往診してみると、智明さんは、意識はしっかりしていますが、「食べたくない、気持ち悪い」とおっしゃり、右横腹、肝臓の辺りに圧痛を訴えます。これはやはり肝臓の問題かな、と思われましたが、黄疸は出ていないようでした。食事も水分もとれそうにないので、ひとまず点滴を開始して、同時に採血検査をして肝機能その他をチェックすることとしましたが、血液検査の結果が出るのは翌日になります。翌朝、検査結果を見た上で、今後の対応をどうするか相談することとして、いったんお宅をあとにしましたが、その僅か5時間後、午後2時50分、奥様より、呼吸が停まっている、との連絡が入りました。
 その時も私は他のお宅に訪問中で、急遽駆けつけたものの、既に呼吸・心臓は停止、死亡を確認するだけでした。
 奥様にお話を聞くと、点滴を始めたので少し奥様は安心して隣の居間におられたのだそうですが、何だかいつも聞こえる音が聞こえないな、と思って見てみたら、呼吸をしていなかった、のだそうです。苦しくて奥様を呼んだり、ということも何もなく、いつの間にか亡くなっていたので、きっと安らかに逝ったのでしょうから、もう満足です、お世話になりました、と我々に礼を言われました。むしろ我々の方が、「原因」がわからずに突然に亡くなられたので、了解をするのに時間がかかりました。医者としてはどうしても、なぜ亡くなられたのか、自分の内部できちんとした説明ができない、というのはすっきりとせず、それは勿論、御家族に対しても説明ができない、ということにもなりますから、医者としての責任を果たすことができない、という思いになります。説明ができない、ということだけではない、無論、「病気」であった、具合が悪かった、ということを正しく診断して、適切な治療を行えた、というわけではなかったことは、何よりも責めを負うべきことでした。私はずーっと呼吸器疾患のことを中心に考えてしまっていましたので、もし亡くなるとしても、呼吸状態が少しずつ悪くなって、食欲も落ち、るいそうも進み、というような形であるか、或いは、急変としても、高熱を出して肺炎になる、とか、痰が出し切れなくて窒息のような状態になるか、ということが想定されていたのです。しかし実際はそうではなかった。鼻血、右腹痛、嘔吐。肝硬変・肝癌の進行、ということが死因であった可能性が高いと思われました。肝臓の状態が悪くなっている可能性についてはその前日に確かに頭をよぎってはいましたが、ここまで急激に悪化して死に至るとは全く予想していませんでした。いえ、肝臓が死因であるかどうかもはっきりはしませんでしたが、少なくとも呼吸器の病気を死因とするには問題があるだろうと思われました。
 この章では繰り返し書いてきているように、ここでもまた、死因の究明、死亡診断、死体検案、ということが問題になります。智明さんの場合には、亡くなる前日、5時間前、に診察をしており、カルテ上の記載としても肝臓疾患の増悪について懸念をして点滴まで行っている最中のことですから、法律的には私が死亡診断を書くことに問題はなかったかもしれません。しかし、心情的には死因は私としては、肝臓、とは書きにくい。その日の午前中、点滴を入れる際にとった血液検査の結果は翌日に出ましたが、やはり肝臓の機能がかなり悪くなっていたことは窺えたものの、その他にも異常なデータはいくつかあり、確定的なことはやはり何とも言えない状況でした。
 私はその場で、奥様と娘さんに、「申し訳ありませんが、死因、がはっきりわかりません。肝臓がだいぶ悪くなっていた可能性も高いと思いますが、はっきりとは言えません。こんなに急激に悪くなるとは予想できませんでした。申し訳ありませんでした。死因をはっきりとさせることを望まれるようでしたら、病院に運んで検査をしたり、或いは解剖をしたり、ということもできますが・・・」との旨お話をしましたが、奥様は即座に、そんな必要はない、とおっしゃり、苦しまなくて逝ったのだから何も言うことはない、と、晴れ晴れとしたように繰り返されました。
 死因は、結局、御家族の意向もあって、老衰、ということにしました。
 これは医者の繰言でしかありませんが、死因がはっきりしないケースというのはやはり多々あります。こうした智明さんのようなケースで、死因を老衰とするのは、医学的には決して「正しい」ことではないのだろうと、重々承知はしていますし、死亡診断、ではなく、死体検案、とすべきかもしれない、とも思います。しかし、御家族と、おそらくは御本人にとって、死因なんてどうでもいい、というのもまた真実なのだろうと思うのです。

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