在宅看取りの記録
Ⅴ 入院を選んだ方
○○志津子さん、享年66歳「病院に行かなくても・・・」
○○志津子さんは、脳梗塞後遺症のため長期ベッド上の生活を送られていましたが、脳梗塞を再発され、最終的には入院の上、心筋梗塞の診断にてお亡くなりになった方です。最期の1日は、我々にとっても本当に激動と言っていい状況となりました。
私にとっては、志津子さんの経過、状態は、謎の多いものでした。私が訪問診療を前任者から引き継いで、初めて志津子さんのお宅に伺ったのが、ある年の1月。前任者からの経過報告では、「10年以上前に脳梗塞を起こし、右半身麻痺、1年程前に発熱で入院歴あり、その後退院してから背部の褥創(床ずれ)が悪化し、治療、現在は治癒」というものでした。しかし、初めて伺った際の診察でも、少なくとも右半身麻痺はありそうでもなく、ただ足首が、尖足と言って、曲らない状態ではありましたが、体の動きとしては特に問題がなさそうに思われました。両手は自由に動かしており、こぼしながらではありましたが、左手で茶碗を持ってスプーンで食べる、ということでしたし、ベッドの脇に座らせてみると、最初はやや不安定でしたが、背もたれなしでもちゃんと座る姿勢を保つこともできました。足首が曲らないことを除けば、手を貸して立たせてみても、両足で踏ん張ることは可能なようでした。ただ、会話をすることは困難でしたが、これも、脳梗塞による「失語」というよりは、喋ること自体の障害のように思われ、よくよく聞いてみると、ぼそぼそと小さい声ながら、内容はしっかりしたことを話しているようでしたが、とにかく聴き取りにくく、会話としては成立しない、という状態でした。
総じて、脳梗塞の後遺症がどこまであるのか、が疑わしい、判然としない状態だったのです。初診の時点での65歳という年齢は、私共がお目にかかる患者さんとしてはかなり若い方に属し、しかも、脳梗塞を起こされた10年前は55歳くらいだったわけですからなおのこと若く、そのあと、適切な形でリハビリテーションを行っていけば、現在の時点で、まだ歩行ができていてもおかしくないようにさえ思われました。しかし、実際にはベッド上から降りることもなく、巨大な褥創ができてしまった、という。確かに、足首が曲らなくなっていたことも含めてですが、体は全体としてかなり「硬く」なっており、これは、ずーっとベッド上での生活を強いられたためにそうなっているとも思われましたが、パーキンソン症候群という別の疾患を合わせて考える必要もあると思われました。
こうして書いてしまうと、とても偉そうで我ながら恐縮してしまいます。医者の世界では、「あとからみた医者ほど名医」という言葉があります。患者さんが症状に苦しんであちこちの病院を渡り歩く、あとから診察をした医者ほど、前の医者の判断も参考にでき、また、御本人の症状の移り変わりも知ることになりますので、正確な診断に近づくことができる、というのは、まあ、当たり前といえば当たり前なのです。盲腸(虫垂炎)などでもよく聞かれることですが、おなかが痛い、といって夜に救急病院などに行くと、まだ自分で歩けるくらいの状態であれば、「便秘でしょう」くらいで下剤を出されて帰されたりする。翌日か翌々日、いよいよ動けなくなって、痛みも強くなってから再度別の病院に行ったりすると、「盲腸です。なんでこんなになるまでほっといたんですか!」などと怒られたりする。医者からすれば、決して前の医者の悪口を言うつもりではないのですが、患者さんからすると、前の医者が誤診をしたかのように受け止めてしまうこともあるかと思います。あとの方の診察の時点では明らかに虫垂炎で緊急手術になるような状態であったとしても、前の晩の時点ではそこまでではなかった、ということはしばしばあることで、これを誤診と呼んでいいとは思えないのですが、まあこれも医者の側からの論理でしょう。
志津子さんに関して話を戻すと、結局そのあと、私は、思い通りに診療を進めることが困難であることに段々に気づいていくことになりました。いくつか細かい問題はあり、投薬も色々とありましたが、当面の課題は、ベッドから離れて外へも出られるように、いわゆる、ADLの改善である、と思われましたので、リハビリテーションの体制として、施設でのデイケアのように外へ出て行くものを組み込んだり、診療や訪問看護の際にもなるべく座る姿勢をとらせたり立ち上がらせたり、といったことを入れるように考慮しました。ところが、家庭の背景としては、こちらの思い通りには行かない状況だったのです。
一番の問題は、経済的なことでした。医院の事務サイドや、私より以前から訪問していた看護師などから徐々に入ってくる話としては、志津子さんのところでは、医院への支払いが滞っているようでした。訪問診療というのは、否応なく患家の経済状態に触れてしまう仕事でもあります。家に伺ってしまえば、極端に裏のある家庭はともかくとして、裕福であるかそうでないか、どんな物を食べているか、どんな物を着ているか、衣食住の大まかのところが見えてしまいます。それが見えてしまえばおのずと、診療の現場にも影響はあります。そもそも訪問診療というのは、外来に来て頂くことと比較すれば、料金、という点からはかなり「高額」なものです。月2回以上訪問をすると、特殊な加算があったりしてまた高額になったりもする。訪問看護にしても、訪問リハビリにしても同じです。車に乗って出向く、という手間や交通費の分がどうしたって上積みされてしまいます。そのときはそうした料金の支払いは、銀行からの引き落としにしてもらっている家庭が多かったのですが、我々が伺った際に現金のやり取りをして領収証を置いてくる、ということもたくさんあります。これは医者の仕事としてはなかなかに「嫌な」仕事ですが、そのおかげで、我々の方にも、自分の行っている診療についての金銭感覚が養われる、といった面もあります。その他の介護保険のサービスにしても、いくら保険、といっても、全てお金の絡む話にはなります。介護サービスの場合は、あくまで「1割負担」という原則ですから、安いとは言っても無料なわけでもありません。「サービス」という名に誤魔化されて、介護認定の限度額いっぱいまで使わないと損、と思っておられる方も多いのですが、1割の負担すら困難、という場合だってあるのです。
医者の立場からすると、経済状態の貧しい方だから診療を手控える、といったことは勿論あってはならないことです。適正な診療を心がけ、無駄な検査や投薬を控える、と、こう書いてしまえば当たり前のことかもしれませんが、恥ずかしながら、普段の診療の現場ではあまり意識をしていないことでもあります。これが、自分で経営をしている開業医であれば、逆に、不必要な検査や投薬でも収入のために意識してやる、ということもあるのかもしれませんが、その時は私は雇われの勤務医でしたので、良くも悪くもあまり医者として金のことを考えていない、というのが本音でした。例えば血液検査一つとってみても、本当にお金を支払う側のことを考えてみれば、必要最低限の項目を二つ三つ出せば充分、というところを、「どうせ血液をとるのだから」と、安易に十項目以上のセットで出してしまう、とか、新薬だから、といって飛びついて使ってみたり(新薬は一般的に高価です)、とか、ということは、あまり意識しないで日常やってしまいがちなことです。志津子さんの場合、毎回の診療でも、本当に必要な検査、必要な投薬を吟味して、御家族ともよく相談をして、という、緊張感を持った診療となりました。
志津子さんの場合のもう一つの問題は、上の問題とも絡みますが、御家族の背景でした。志津子さんは御主人と娘さんと3人暮らしで、御主人も、家にはおられましたが、慢性の疾患でかなり具合が悪く寝ていることも多く、娘さんが一人で働いて家計を支えている状況でしたので、娘さんは「夜も昼も」というかなり無茶に見える働き方をしていました。そのため、我々が訪問診療に伺ったり、訪問看護や訪問リハビリ、或いは、デイケアへの送り迎え、など、様々な形で他人が訪れる、ということに、御家族としての対応が困難だった、ということがありました。誰だって、自分の家に他人がずかずかと上がり込む、ということには抵抗があるものでしょう。「ずかずかと」のつもりはないにしても、志津子さんのような寝たきりに近い状態の方のところでは、日替わりで入るヘルパーさんや、入浴サービス等々、全部合わせると多い方では週に20人くらいが出入りするケースもあると思います。これらに対応するのは、御家族としても負担は大きいと思います。
結局のところ、志津子さんのお宅では、手配して生活保護を受けることになったり、市の福祉課の方で動いて、疾患や障害によって受けられる補助金などもできるだけ申請するようにしたり、ということになっていき、正直言って、そうした社会的背景の問題の方が優先される問題のようでした。実際カルテを見直してみても、そうした申請のための診断書を書いたり、書類を書いたり、ということが非常に多かったことがわかります。
それでも、医者として、状況の許す範囲内で色々なことを試みました。投薬の調整も何度も何度も行いましたし、リハビリテーションの方法論も手に入る情報を集め、新しい取り組みも行ってみました。しかし、在宅の限られた時間と空間内で、ADLの改善、としては遅々として進みませんでした。
1年があっという間に過ぎていました。翌年の3月、突然でした、早朝、娘さんから、志津子さんの意識がない、と連絡があり、急遽駆けつけてみると、目は開いているものの眼球は右に向いたままで、乳首を強くつねっても反応がほとんどありませんでした。指示をしても受け答えはありませんでしたのではっきりとはしないものの、どうやら右手足、右半身が麻痺をしているようで、脳梗塞或いは脳出血を起こしている可能性が高いと思われました。
娘さんによく話を聞いてみると、その前夜、夕食後に痙攣発作があり、そのあと意識が落ちたらしい。ここまではそれまでにも時々見られていたことで、志津子さんは痙攣予防の薬も長期に服用していました。痙攣発作のあと意識が落ちる、ということもままあることだったので、娘さんはそのまま夜勤の仕事に出かけてしまい、朝戻ってみたら、意識がないままだった、と。10年前にもやはり脳梗塞右半身麻痺だった、ということでしたので、今回もおそらくはそれに近い部位の脳梗塞の再発、と思われ、しかも、お話の限りでは、前夜の段階で起こっており、もう12時間近くが経過しているものと思われました。
普通に考えれば、すぐに救急車を呼ぶ、ということだったのかもしれません。しかし、私も以前はずっと病院で勤務しており、脳卒中の診療や、リハビリテーション医療にも携わっており、これから先志津子さんがどういう治療を受けるのか、どういう状況になるのか、がおおよそ見えていましたので、すぐさま病院へ運ぶことが本当に妥当なのかどうか、逡巡しました。その時点で、呼吸は浅く速く、血圧も低くなっており、全身状態としても悪く、まずは生命を救う、ということの段階でも困難が予想されました。脳卒中の急性期の治療としても、できるだけ早く行えば効果が期待できる治療はありましたが、その頃近くの病院でその治療を行っている所はありませんでしたし、既に発症から12時間が経過していることからも、そもそもその治療自体が行えないだろうと思われました。そして、辛うじて生命が助かったとしても、右半身麻痺が残り、失語症も起こしている可能性も高く、長いリハビリテーションを受けたとしても、もともとのレベルがほとんど寝たきりだった状態の方がどこまで改善をするのかは甚だ疑問でした。生命が救われたとしても、そのあとの生活、志津子さんのみならず、御家族を含めた生活がどのようなものになるのか、と考えると、即座の決断ができませんでした。
私はその場で娘さん、御主人に正直なところをお話ししました。おそらくは脳梗塞の再発で、起こってから12時間が経過していて、今の時点で意識のレベルや呼吸状態、血圧などを見てもかなり重症であること、生命の危険も高いであろうこと、今から病院に運んだとしても、起こってしまった脳梗塞に対して、それをなかったことにするような治療は難しく、いずれにしてもすぐには食事や水分をとるわけにはいかないだろうので、24時間点滴をしながら経過をみていく、ということになるだろうこと、このまま御自宅で点滴をしながら様子を見ていくということも、バックアップすることは可能であること・・・こうしたお話をするときには、話の内容だけでなく、話し方、力点の置き方、表情などなどが大きな意味を持つものでしょう。正直に言って、私は、このままおうちで看取りまで覚悟して考えてもいいのではないか、と思っていました。そうした私の心情が御家族に伝わってしまうことはあったかと思います。しかし、決して、そのままおうちにいることの方が「良い」のだ、と、御家族を誘導するようなことは言わないように気をつけてはいました。そのときの状態から救急車に揺られて、検査室や病室を往復し、集中治療室に入ったままになる、ということを考えても、我々が連日伺って、御家族の協力も得ながら御自宅で24時間点滴をする、ということと、どちらが志津子さんにとって「良い」のか、は、今考えても本当にわかりません。ただ、そのままおうちにいる、という選択肢もあるのだ、ということ、我々ができる限りバックアップはします、ということはお話ししました。
このあたりの言い回しは、どう書いてみても微妙になります。しかし、結局その時点では、娘さんも御主人も、そのままおうちで様子を見る、ということに同意されました。
私は、穿った見方ですが、御家族は、「ああ、それでもいいんだ、うちにいてもいいんだ」と、ちょっとほっとする部分もあったのではないか、と思い返します。その場で、同行していた看護師と一緒に、尿をとるカテーテルの管を入れ、点滴を入れ、また午後に連絡を入れるようにすること、御家族の方で何か異常を認めたりしたときにはすぐに連絡をしてもらうようにすること、そして、あらためて、この1-2日のうちにお亡くなりになる可能性も高い状態であること、をお話しして、志津子さんのお宅をいったんあとにしました。
こうしたやり方、脳梗塞が疑われる状態で、入院をさせずに御自宅でそのまま経過を見る、というやり方が、今の日本では必ずしも一般的に受け入れられるものとは言えないのだろう、とは思います。しかし、医者の仕事というのは、「病気を治す」ということもあるでしょうが、裏を返してみれば、治せない病気を治せないと診断すること、究極のところ、「死」の診断をする、ということまで含まれ、それは単に呼吸が停まったとか心臓が停まったということ以前に、それぞれの患者さんについて個々の状況を判断して、どこまでの治療をしてどこからの治療をしないのか、という判断をすることも含むと考えます。私は、この時点での志津子さんの状態、これまでの経過、家族等の背景の状況、等々を勘案して、御自宅で経過を見ることを選択した、ということです。
高齢者医療について私がよく参考にさせて頂いている本の中には、次のような一節があります。やや長くなりますが引用させて頂きます。
「老人が突然に不快感に襲われ頭痛を訴え嘔吐したり、意識を失うときには、まず横臥位にして衣服をゆるめるのがよい。この場合、屋外で倒れたときには救急車を呼び病院へ運ぶのが妥当であるが、自宅近くならばとりあえず自宅へ運ぶのもよいであろう。屋内で倒れたならば、寝室など横になるのに適した場所へ運ぶのがよい。嘔吐が続くときには吐物を誤嚥することがないように、体を充分に横に向けて外へ吐き出させるようにしなければならない。このあと自宅からさらに病院へ搬送するか否かは決めにくいところであるが、意識もほとんど失われない、頭痛も軽いというような軽症の場合、或いは全く反応がない昏睡状態で、呼吸も不規則で手足の動きも少ないというような重症の老人の場合には病院転送の適応ではないと考える。」(『老人医療への新しいアプローチ―――全人的評価とケア』編集日野原重明・柄澤昭秀(医学書院・1992年)中、「老人の脳卒中」の項より引用、太字強調は引用者。)
これはあくまで医者向けに書かれた「老人医療」についての指南書なわけですが、要は、脳卒中に限らず、高齢者の医療に関して、「極端な重症の場合には、必ずしも病院搬送などせず、安らかに最期のときを迎えるように配慮することも必要である」という主張が全体を通じて感じ取られます。大変御高名な日野原重明先生の御威光を借りる、というのは、己のあざとさを恥じるばかりですが、やはり、我々医者、特に私のように病院勤務でもない在宅医療の現場の医者は、それはそれは孤独なもので、助けてくれる同僚も先輩もおりません、こうした先達の書かれた教科書などの情報は、大いに助けになるものなのです。
勿論、この本に書かれたことが「正解」だ、というつもりもありません。もう今から見ればだいぶ古い本です。高齢者医療、という現場を離れれば、一般的な急性期病院の物の考え方としては、やはりここに書かれたことは、医者の世界の中でも受け入れられにくいことだとも思いますし、高齢者医療の枠内であっても、意見の相違は多々あるものと思います。そもそも、この志津子さんの場合66歳だったわけですが、「高齢者医療」とひとくくりにしてよいのか、といった非難もあるでしょう。正解はない、ただ、こうした考え方もあるのだ、ということです。最終的には、やっぱりあくまでそれぞれの患者さんの状況に応じて、深い了解と洞察によって一人一人に判断をつける問題であることは確かです。
さて、私は志津子さんのお宅をあとにしてからも、他のお宅の訪問診療に回っていたわけですが、そちらのことはまったく覚えていません。今にも、志津子さんの呼吸が停まった、と連絡が入るのではないか、と、びくびくとした午前中を過ごしていました。午後1時半、午前中の訪問が長引いている最中に、御家族から電話が入りました。話し合った結果、やっぱり入院をさせて欲しい、と。・・・・・・それが、午前中志津子さんのそばでどうしたらいいのか考えあぐねた御家族の出した結論でした。そのまま私は志津子さんのお宅に直行し、近くの総合病院に紹介の連絡をとり、救急車を手配し、すぐに志津子さんは入院となりました。正直なところを言えば、私自身ほっとしました。結局のところ、誰しも、自分の責任から離して「他者」の手に預けてしまう、ということは、楽なことです。
翌日の朝、御家族から連絡が入り、志津子さんは、早朝に息を引き取った、ということでした。
しばらくして、御焼香のために御自宅の方へ伺いました。少し時間が経って落ち着いてはおられましたが、娘さんは問わず語りに、最期の様子を話して下さいながら涙ぐまれました。病院に行ってからは、のどに管を入れ(気管内挿管)人工呼吸器の管理となり、最後には早朝、心臓が停まりかかって、心臓マッサージが繰り返し行われ、胸の骨がボキボキ音を立てて折れているのがわかった、と。
結果論にしかなりませんが、私は、こんなことならばやはり入院をさせるべきではなかった、と深く後悔しています。入院が遅れたために、救える命を救えなかったのかもしれない、という、自分の責任は常に振り返って考えざるを得ません。しかし、それでもなお、この志津子さんの場合に関しては、やはり入院をさせない方が良かったのでは、と思い返してしまいます。
誰を責めるわけにもいかないとは思います。御家族は、付き添っていて感じた不安に耐えかねて入院を選んだのでしょうし、入院を依頼されたからには病院の医者としては、救命に全力を尽くす。やはり、責めるとすれば、私自身を責めるしかない。しかし、もう一度もし同じような状況になったときに「入院をさせるべきではない、そうすれば余計不幸なことになります」などと、自分に言えるだろうか、と考えても、やはりそうは言えないだろう、とも思います。
娘さんの涙は、「もっと早く入院をさせてやればこんなことにはならなかったのに」、と、私を責めるものだったのか、胸の骨が折れて最期を迎えた母親の痛みを思いやってのものだったのか、やれるだけのことはやった、という満足の涙だったのか。
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