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「サルコペニア、徹底追及」 報告と雑感

更新日:2023年10月13日

(室蘭登別食介護研究会 第8回研修会 (2015.6.3))

 2015年6月3日(水)、第8回研修会では、「サルコペニアについて徹底追及」と題して、市立室蘭総合病院管理栄養士の、川畑盟子先生にご講義をお願いしました。


 実は、川畑先生のお話のあと、私自身の方から、「関連概念としての、廃用症候群・フレイル・その他」として簡単にお話をしたのですが、以下、川畑先生のお話の内容にも触れますが、主には私の方の「雑感」です。いつものことですが。


まえおき

 「サルコペニア」という言葉は、比較的新しいものですが、度々「摂食嚥下リハビリテーション学会」の中でも議論となってきており、我々「食介護研究会」としては、経口摂食・栄養、といった問題と関連のあるテーマとして、きちんと整理しておきたい、と考えたわけです。が、しかし、・・・


 そもそも、「関連概念」が多過ぎるような気がしていました。年をとって(というばかりではないのですが、病気になったり、動けない環境になったりして)動けなくなっていってさまざまな問題が起こってくる・・・、そうした状態について、様々な概念が挙げられるようになってきているわけです。

 ここでは、「サルコペニア」「廃用症候群」「フレイル」「ロコモティブシンドローム」という4つの単語について挙げていきますが、何せこちらも年をとってくると、こういう新しく起こってくる概念を整理整頓することも大変なのです。それぞれに、「定義」などに触れてはみたいと思いますが、とにかく、私なりの「解釈」、と「雑感」が大きく前面に出ることはご容赦ください。



1. まず、定義

 とにかくまず、4つの言葉の定義として挙げられているものを羅列してみます。しかし、実は、「疾患」としてきちんとした「定義」になっているものはあまりないようです。


サルコペニア

 進行性および全身性の骨格筋量および骨格筋力の低下を特徴とする症候群

サルコペニアとは、進行性かつ全身性の筋肉量と筋力の減少によって特徴づけられる症候群で、身体機能障害生活の質の低下、死のリスクを伴うものである」

(2010年 EWGSOP:欧州ワーキンググループ定義)

サルコペニアの診断基準として、1)  低筋肉量/2) 低筋力/3) 低身体動作 が挙げられています。


フレイル

Frailtyとは、高齢期に生理的予備能が低下することでストレスに対する脆弱性が亢進し、生活機能障害、要介護状態、死亡などの転帰に陥りやすい状態で、筋力の低下により動作の俊敏性が失われて転倒しやすくなるような身体的問題のみならず、認知機能障害やうつなどの精神・心理的問題、独居や経済的困窮などの社会的問題を含む概念である。

(2014年日本老年医学会からのステートメント。ここで、日本語訳として「フレイル」が採用される旨宣言された。)


ロコモティブシンドローム

 「運動器の障害によって、移動機能が低下した状態」・・・具体的には、「階段を昇るのに手すりが必要である、支えなしには椅子から立ち上がれない、15分くらい続けて歩けない、転倒への不安が大きい、この1年間で転んだことがある、片足立ちで靴下がはけない、横断歩道を青信号で渡りきれない、家のなかでつまずいたり滑ったりする」場合などが含まれる、とされる。

(2007年日本整形外科学会が提唱)


廃用症候群

 「過度の安静によって、循環障害、呼吸障害、尿路障害、褥創、認知症の進行などの全身的症状の総称を廃用症候群という。」

(1)循環器系:心拍数の増大・心容量の減少・一回拍出量の減少・起立耐性の低下・最大酸素摂取量の減少・・・・・・ (2)骨代謝系:尿中Ca排泄の増大・骨の脱灰・骨軟化 (3)筋系:萎縮・筋の脂肪による置換 (4)内分泌系:ホルモン分泌の異常 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


2. それぞれの「違い」と「関係」

 サルコペニア、フレイル、ロコモティブシンドローム、廃用症候群、といったこれらの概念は、いずれも、「老化」「高齢化」といった問題と関連して、少なくともいくばくかの共通性を持つ概念のようです。

 まず、それぞれの概念が出現するに至った背景を、私なりに描き出して、それぞれの「共通性」を強調してみたうえで、その後、「違い」について見ていきたいと思います。なるべく簡略に。


★背景にあるもの

・「フレイル」は、先に述べたように、もともとは外国で提唱された概念ですが、それを、日本老年医学会が2014年に新たに我が国に導入するに当たって、次のような形で提唱をしました。やや長いですが引用させてもらいます(赤字:筆者)


フレイルに関する日本老年医学会からのステートメント

少子高齢化は世界的に大きな課題である。高齢化に伴う諸問題の一つとしてわが国においては要介護状態にある高齢者数が増加し、介護及び介護予防サービスに要する費用は8兆円を超えている。高齢者においては生理的予備能が少しずつ低下し、恒常性が失われていく。健常な状態から要介護状態に突然移行することは、脳卒中などのケースでみられるが、今後人口増加が見込まれる後期高齢者(75歳以上)の多くの場合、“Frailty”という中間的な段階を経て、徐々に要介護状態に陥ると考えられている。Frailtyとは、高齢期に生理的予備能が低下することでストレスに対する脆弱性が亢進し、生活機能障害、要介護状態、死亡などの転帰に陥りやすい状態で、筋力の低下により動作の俊敏性が失われて転倒しやすくなるような身体的問題のみならず、認知機能障害やうつなどの精神・心理的問題、独居や経済的困窮などの社会的問題を含む概念である。しかしながら、このFrailtyの概念は多くの医療・介護専門職によりほとんど認識されておらず、介護予防の大きな障壁であるとともに、臨床現場での適切な対応を欠く現状となっている。近年、老年医学の分野でFrailtyは、病態生理のみならず、診断から介護予防における観点でその重要性が注目されている。したがって、Frailtyの重要性を医療専門職のみならず、広く国民に周知することが必要であり、それにより介護予防が進み、要介護高齢者の減少が期待できる。


 ・・・お分かりでしょうか。私の方で赤字にしてみましたが、要するに、

◎介護および介護予防に8兆円もかかっている。

◎(フレイルの重要性を皆が理解すれば)介護予防が進み、要介護高齢者の減少が期待できる。

→すなわち、

「フレイルの重要性を皆が理解すれば、介護費用に8兆円もかけなくてもよくなる」(?)

ということが言いたいのだろう、と思います。


 思えば、介護保険制度が2000年からスタートして以来、いや、その前から、でしょうが、我が国のみならず、いわゆる先進諸国では、「高齢化・少子化」の問題が重くのしかかり、それは、医療業界にとっては、医療費増大、という問題として解決を急がねばならない問題でした。

 増大する医療費・介護費用をどこから捻出するのか、また、どうすればそれらを抑制できるのか。

 当然これは、国家として対策を講じなければならない問題です。医療業界としては、医療費を抑制する、ということを、研究テーマとしても取り組んできたわけです。その一つの答えが、予防医療・介護予防、ということだった。

 つまり、「病気」「要介護状態」に陥る前に、もっと早い段階から専門的に介入することによって、「健康寿命」を延ばすことができて、結果として、医療・介護の費用が抑えられるだろう、と。

 過去20-30年の趨勢を見ていると、こうした問題意識の中で、フレイルも、ロコモも、生み出されてきたように、私には思われます。

 廃用症候群、というのは、私としては、ちょっと違う印象があります。というのは、廃用症候群の概念は、医療費増大、という問題が声高になる前から、病院入院中の患者について、「入院中に寝かせきりにさせておくと、どういうことが起こるか」という視点で、少なくとも我々は学んできた。単純に、私にとって、研修医時代からある概念で、この中では一番古い概念であり、かつ、最も広い概念だ、ということに過ぎないかもしれませんが、医療費抑制、ということとは少し離れたところで起こってきた考え方であろうと思っています。イメージでしかないかもしれませんが、「全身的症状の総称」ということで、褥瘡や認知症までも含んでいる、内科的な、包括的な概念です。

一方、フレイル・ロコモ・サルコペニア、は、(少なくとも日本の学会で提唱されているのは)いずれも比較的新しい概念で、私の見るところ、

「医療費を抑制するために、なるべく早い段階で、高齢者の『低下』を見つけて介入をしよう」

という方向性から出てきているものなのだろうと思います。

 上に挙げた、それぞれの診断基準(?)からすれば、介入すべき、高齢者の『サイン』を、

・サルコペニア = 筋肉量低下/筋力低下

・フレイル = 体重減少/疲れやすい/筋力低下/歩行スピードの低下/活動性の低下

・ロコモ = 運動器の障害/移動機能の低下

としています。それぞれ重なっていることは明白で、だからこそ区別がしにくい。

 要するに、「歩くのがゆっくりになってきたら、要介護状態が近いから、もっと運動したり適切な栄養を摂ったりしなさいよ」ということです。

 当たり前ですね。当たり前だけど、これが難しい。だからみんな必死になってる。


 「サルコペニア」と「フレイル」は、どうやら手を組んでいくようです。以下のような研究会が立ち上がっているようです。


日本サルコペニア・フレイル研究会(Japanese Study Group on Sarcopenia and Frailty)設立趣旨

フレイルやサルコペニアの概念は比較的新しく、しかも一般の医療・介護専門職における認知度が低いために、適切で必要な介入が行われていないのが現状です。従って、その重要性を周知し、病態、疫学、介入法などについてエビデンスを構築することが喫緊の課題となっています。

平成26年2月吉日

日本サルコペニア・フレイル研究会世話人代表   荒井秀典


 この荒井秀典先生は、京都大学医学部教授から、2015年4月に、国立長寿医療研究センターの、老年学・社会科学研究センター長になられています。この、サルコペニア・フレイル、の概念が、今後の我が国の高齢化問題の中心に据えられていくことになるのでしょう。



3. 早く介入すれば、医療費は抑制されるのか?

★健康寿命を延ばす?

健康寿命、とは、「健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間」を指すそうです。現時点で、日本人の平均寿命から健康寿命を引くと、男性は約9年、女性は約12年となるのだそうで、裏返せば、男性9年、女性12年は、要介護状態、ということで、この間介護費用がかさむわけです。

厚労省は、

「平均寿命の延伸に伴い、こうした健康寿命との差が拡大すれば、医療費や介護給付費の多くを消費する期間が増大することになります。疾病予防と健康増進、介護予防などによって、平均寿命と健康寿命の差を短縮することができれば、個人の生活の質の低下を防ぐとともに、社会保障負担の軽減も期待できます。」

と、ホームページの中で謳っています。

 上の図は、健康寿命、とはまったくイコールではありませんが、ほぼ近いものとしての「活動的余命」というものについての概念図です。

 非常にわかりやすいですね、トレーニングをしていれば、ADL機能不全になる年齢を遅らせることができる。・・・これは、直感的にも理解しやすいし、おそらくは、研究としても正しいのだろう、と思わされます。健康寿命についても、こうした図が使われることが多いようです。すなわち、早いうちに介入して、トレーニングや適切な栄養を指導することによって、健康寿命を延ばせる、ということです。

 長寿医療研究センターでは、フレイルに関して、上のような図も挙げています。言わんとしていることは、「フレイル(虚弱)」から「健康」へは、介入によって戻ることができるが、「身体機能障害」から戻ってくることは難しい、ということのようです。

 この2つの図に類した図は、いくらでも探すことができます。これらに共通するのは、いずれにしても、直線はまっすぐに右肩下がりになっている。すなわち、「加齢と共に、身体機能が低下する」ということは、前提になっています。


 何だかちょっと、おかしいな、と思いませんか?

 初めに挙げた図の方がわかりやすいと思いますが、ちょっと書き加えてみます。

 もし、非トレーニング群と、トレーニング群、それぞれがやっぱり加齢と共に少しずつ衰えていく、という前提だとすれば、両者の直線をそのまま延長していって、死を迎えるのであれば、トレーニング群の方が、結局は「寝たきり」の時間が増えるんじゃないのか?ということは、介護費用は余計かかるのではないか?・・・と、疑問に思いませんか?

 確かに、トレーニングすれば、「健康寿命」、は延びるかな、と思いますが、その分、「不健康寿命」も延びるんじゃないの?

 しかも、早くから(元気そうなうちから)介入するので、その分も費用はかかります。あくまで、費用、ということだけを問題にするのであれば、健康なうちから介入して費用がかかり、最後は結局寝たきりになってしかも長いこと要介護状態が続くのであれば、余計費用がかかる。いいことないんじゃないの?


★ぴんぴんころり(PPK)

 この矛盾を埋めるためには、実は、「加齢によって直線的に低下する」という前提を崩す必要があります。

 上の図は、「ぴんぴんころり」を説明した図です。

 ぴんぴんころり、ご存知でしょうか?

 死ぬ直前までぴんぴんしていて、死ぬときはころりといく、「誰しもそうした死に方を望みたい」かどうかはわかりませんが、寝たきりになって長く苦しむよりも、死ぬときは苦しまないであっさりと、ということは、よく耳にします。それを称して、ぴんぴんころり、PPKと略したりもします。

 この図は、明らかに先の2枚とは違います。赤線は、直線ではないですね。病気になったら、線は折れ曲がり、そのまま急速に死へ向かう。しかも、死ぬときの年齢は、青線と赤線がほぼ同じになっている。これであれば、確かに本人の(寝たきりでの)苦痛は短いし、医療・介護費用もかからなくて済みそうです。


 どうなんだろう?こっちの図を前面に出した方が、みんな納得しやすいんじゃないの?


 でも、俗な話題としてはこれでもよい、一般の方が口にするのであればこれでもよいのですが、医療業界の者としては、なかなかこの図を前面に出しにくい。

 赤線はつまり、「年寄りは、病気になっても治療しないよ」ということでもある、からです。だよね。

 寝たきりになるような状態になれば、そのまま看取る。「無駄な」治療はしない。

 この図は、医者から見れば、そう見えます。

 私は、本音を言えば、それでよい、とも思う。実は、高齢者の診療をしている多くの医療従事者もそう思っている。でも現実にはなかなかそうはいっていない。あからさまにはなかなか言えないので、こうした図でごまかしごまかし、をする。


 一般的には、「ぴんぴんころり」は、心筋梗塞にでもなって、苦しまないでころりと逝きたい、あるいは、寝ている間に息が止まって、朝になって家族が発見する、などという、「突然死」がイメージされることが多いのでしょう。しかし、実際を考えれば、心筋梗塞、って言ったって、今日、おいそれとは死ねません。発見が早ければ、「助かって」しまいます。ましてや、脳梗塞なんかは、一昔前なら「ぴんぴんころり」のイメージだったかもしれませんが、今では助かってしまいます。もちろん障害が残ることの方が多いでしょう。ころり、といかないための医療技術も、どんどん進歩しているのです。


★どんな風に死にたいのか?

 上に挙げた2種類の図には、それぞれ微細な(でもないか)嘘が含まれます。何を目的にするか、によって、どちらも都合のよい図を作っている、ように見えます。

 前者の図では、「早い時期からトレーニングをすれば、健康寿命を延ばすことができる」ということを強く訴えたいために、閾値を下回った後の直線をぼかして書いている。

 後者の図では、「ぴんぴんころり」を望ましい、とするためにひねくり出した図であって、現実を反映したものではそもそもない。それはそれで結構。「理想」だからね。


 結局のところ、みんなが本当に望んでいる「生き方」「死に方」は何なのか、という問題になるのでしょう。

 で、さっきの図を作り変えて見ました。

 ①は、「いいんだよ俺は、健康になんて気を使わなくて。好きなようにタバコも吸うし酒も飲むし、食いたいものをばくばく食って、寝たきりになったりするようならもう治療なんてしないでサッサと死ぬさ」という態度ですね。これはこれで潔い。

 ②は、「いいんだよ俺は、健康になんて気を使わなくて。好きなようにタバコも吸うし酒も飲むし、食いたいものをばくばく食って。でも病気になったら医療保険にがん保険、進んだ日本の医療でばっちり治療してもらうぜえ。」医者からすると、一番厄介な患者、です。ふだんの健康管理には言うこと聞かないし、いざ病気になれば、それまでの蓄積があるから、治療も難渋するでしょう。でもしょうがない。その人の選択ですから。

 ③は、上述の、ぴんぴんころり、ですね。「子供にも迷惑かけたくないし、ちゃんと健康に気をつけて、運動もして、栄養にも気を使って。それでも寝たきりになるようなら、もう延命治療はしないでほしい。」優等生、ですかね。

 ④は、「とにかく私は長生きしたい。自分でも十分気をつけるし、病気になったらちゃんと治療もしてもらいたい。」まあ、これもこれで潔い。人生の目標は長くあること。


 若干、偏ったセリフになっちゃったかもしれませんが、それぞれの考え方に優劣をつける気はありません。人それぞれ。もちろん、私には私の好みはあるけれど、それはどうでもいいことですし、そもそも達成できるかどうかわかりません。

 医療費がかかるか、ということについて言えば、①や③の人は、あまり医療費がかかりません。その中でもさらに比べれば、もちろん①の人が一番医療費がかかりませんね。だから、国としては(お金を出す側としては)もしかしたら、①のような人が増えた方がよいのかもしれません。

 穿った見方になりますが、国が政策として医療費を抑制しよう、ということを中心命題として考えるのであれば、結局のところ、サルコペニアだのフレイルだの、について介入を考えるよりも、図の黒丸の箇所で、要は、「不健康」な状態になった時点で、医療の介入を行わない、という選択を勧められるかどうか、にかかっているのではないか。

 そうしないと、「ころり」とはいかないのではないか。

 現状をみていると、むしろ問題は、サルコペニア、フレイル、などよりも、黒丸の点での医療介入の有無、なのです。いくら個人的には、①や③のような生き方死に方を望んでいても、いざ、というときになると救急車で運ばれて、自分では喋れない状態になってしまっていて、なんとなく、医者の方も型どおり治療をして、家族の方もほっとくわけにもいかないんであえては口出ししなくてなすがままに任せて・・・とやっているうちに、寝たきりになってしまう。

 いったんそうなってしまえば、途中でやめた、というわけにもいかず、介護保険エスカレーターに乗っかって、万全の介護サービスが動き出す。・・・

 すべては、黒丸の点での選択・意思表示の是非である、と、そう思います。


 そこのところを、国民全体が納得・了解できるのかどうか、あるいは、医療従事者や国がはっきり指針を示せるのかどうか。・・・・・・


4. まとめ

 毎度のことですが、大きく本筋から外れた議論になってしまいました。サルコペニア・フレイル・ロコモティブシンドローム、などなどについてきちんとまとめようと思っていたのに、色々調べているうちに、何だかむなしくなってしまったわけです。

 以前から言われていることなのですが、こういう手法で、高齢者の方が衰えていくのを、速く見つけ出して、速く介入しよう、としてあれこれ策を弄しても、「来る人は来る、来ない人は来ない」となる傾向がある、と。

 行政・市町村などで、「健康教室」とか、「転倒予防教室」などを開いてみても、いざ参加する人は、自転車で颯爽と風切ってきたり、5kmくらいの道のりをランニングしてきたり、要するに、「あなたは来なくてもいいよ」っていうような、既に十分健康に気をつけている人がまた参加しに来る。

 一方で、休日は喜んで昼から酒飲んで、タバコ吸いながらごろ寝、みたいな人は(すみません、偏見はないんだが、一般的な「不健康」の像だと思ってください)、こういう健康教室にはまず来ないわね。

こうした方を、強制的にでも拾い上げていくべきなのか?そのために、サルコペニア・フレイル、などという新概念を持ち出さないといけないのか?

 でもでも、もし「医療費削減」を考えるとすれば、さらにその先に、既に述べた「不健康になったときに、医療介入を行わない自由」という大問題を、患者の側も医療者の側も、十分鷹揚に考えておく必要があるのではないか、と思います。


 私個人の立ち位置として、誤解のないように申し添えておきます。

 他の箇所でも繰り返していることですが、私は、プロフェッショナルな医者として、自分が預かっている(国から、それを扱うことを認定されている)医療技術を、適正に使う、ということが、どういうことか、について、常に思いを巡らせている、ということです。

 他のすべての科学技術と同様、医療技術は、本来、ヒトが「幸福に過ごせるように」という目的のために生み出されているものだと思います。しかし、徐々に技術が一人歩きを始めて、ヒトの幸福とは相容れない方向に進む危険がある。原子爆弾・原発事故、という教訓を、我々は持っている。

 ですから、常に我々は、「技術の進歩」「技術の運用」と同時に、その目的であったはずの、「我々の幸福」ということを、いちいちその都度考えないといけない。そして、技術の運用については、幸福か幸福でないかによって、選択には自由度を確保しなければならない、と考えます。


 ① フレイル・サルコペニア、等の概念を導入して、早期から介入することによって健康寿命を延ばす。・・・いいことだと思います。それを望む方もいれば、望まない方もいる。


 ② 同時に、高齢になって「不健康」な状態、になったときに、さらに「積極的な」医療介入をどうするか。望む方もいれば、望まない方もいる。望まない方には、介入を行わない、という選択を、確保すべきだ、ということです。


 私自身は別に、「医療費を削減する」という錦の御旗に、まるっぽ乗っかる、という気持ちはまったくありません。単純に、各個人の「幸福な生き方・死に方」を考えたときに、医療が介入しない、という選択肢をもっと積極的に前面に打ち出す必要があるだろう、と思っています。・・・その方が、結果として国の望む「医療費削減」へも、近道なのではないか、という気はします。



 最後に、私がこれまでに、あちらこちらで度々引用させて頂いている、日野原重明先生監修の文章をまたしても掲載しておきます。


【老人の脳卒中:発作直後の処置】

• 老人が突然に不快感におそわれ頭痛を訴え嘔吐したり、意識を失う時には、まず横臥位にして衣服をゆるめるのがよい。この場合、屋外で倒れた時には救急車を呼び病院へ運ぶのが妥当であるが、自宅近くならばとりあえず自宅へ運ぶのもよいであろう。屋内で倒れたならば、寝室など横になるのに適した場所へ運ぶのがよい。嘔吐が続く時には吐物を誤嚥することがないように、体を十分に横にむけて外へ吐き出させるようにしなければならない。このあと自宅からさらに病院へ搬送するか否かは決めにくいところであるが、意識もほとんど失われない、頭痛も軽いというような軽症の場合、あるいは全く反応がない昏睡状態で、呼吸も不規則で手足の動きも少ないというような重症の老人の場合には病院転送の適応ではないと考える。

(『老人医療への新しいアプローチ――全人的評価とケア』日野原重明・柄澤昭英編集/医学書院、太字強調は小生)


 これは、一般の方向け、というよりは、医療・介護従事者向けに書かれた「教科書」だと思いますが、要は、高齢者の病気は、「場合によっては救急車を呼ぶな」という、かなり突っ込んだ内容を指南してくれています。

 このテキストが出版されたのは1992年ですので、脳卒中の治療対応もかなり様変わりしていますので、現代では同じようなことを、日野原先生がおっしゃるかどうかはわかりませんが、例えば、「NO!梗塞.Net」という、田辺三菱製薬株式会社が提供する、脳梗塞対応に関するネットの記事では、次のように記載されています。


 「周囲の人が脳卒中と疑われるような発作症状を起こした場合は、あわてずおちついて行動することが大切です。すぐに救急車を呼んで専門医のいる病院へ搬送してもらうことが大切です。「救急」であることを伝え、現在地や患者さんの性別、年齢、意識の状態や症状などを説明します。いずれにしても「しばらく様子を見よう」というのは禁物です。一刻も早く専門の医療機関を受診するようにしてください。」

(太字強調は小生)


 もっともですね。これだけを見れば、突っ込みようのない、適切な対応、と言ってよいでしょう。


 皆さんも、この2つの文章をよく読み比べて、その「趣旨」の違いについて、思いを馳せてみてください。医療費を削減するために、ということではなく、自分の望む生き方・死に方を達成する、ということが、どういうことなのか、を。

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