• 皆川夏樹

報告記:2年半ぶりの市民講習会 「孤独死はいやですか」



2022年10月9日(日)開催


【日程】  2022年 10 月 9 日(日) 開場13:30  開演14:00~16:30

【場所】  総合福祉センターしんた21(登別市片倉町6丁目9番地)2階多目的ホール


14:00~14:10 ごあいさつ・基調講演 「在宅で死ぬということ」(皆川夏樹)

14:10~14:20 「ひとりで死ぬ人はどのくらいいるか」(室蘭警察署 高橋和実氏)

14:20~14:55 「東京での孤独死の実態」(嵯峨崎泰子氏)

15:00~15:35 「島根県の中山間地での人生の最後 -- なかなか独りでは死ねない」(鈴木賢二氏)

15:35~15:45 「住民主体の登別の見守り活動について」(登別市社会福祉協議会 坂本大輔氏)

15:45~16:30 シンポジウム/質疑応答 「孤独死は防げるのか?」



 新型コロナウイルス感染も落ち着きを見せつつあり、何より全国の方々それぞれの自粛ムードが限界となる中、10月9日(日)、予定通り、2年半ぶりの市民講習会「孤独死はいやですか」を開催することができました。


全体通し
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 以下、ごく簡略に、その内容をご報告いたします。



当日の配布資料もあわせて掲載しますので、随時ご参照ください。



 なお、文中、演者であります鈴木賢二氏は、皆川の中学校の同級生ですので、鈴木君、嵯峨崎泰子氏は同じ中学校の合唱部一年後輩ですので、嵯峨崎さん、と記します。ご容赦下さい。


Ⅰ 雰囲気

 会場の、しんた21(登別総合福祉センター)は、事前の会場申し込みの段階から、「コロナ禍中のこともあり、感染対策には十分気をつけ、入場者数は50人程度まで」と釘を刺されておりましたが、そこは主催者側としても譲れぬところで、「入場者数を数える会場側(市側)の方が来られるのか、自己規制の形か」「50人を1人でも過ぎたら、お断り、としてお帰り頂くのか」「スタッフは入場者数には含めなくてよいのか」など、丁々発止のやりとりの末・・・、まあ、注意してやりましょう・・・と落ち着きまして・・・、詳細は略。

 参加者の皆さまもその辺はきっと察したのでしょうか、今回で7回目の市民講習会になりますが、多くの方々から、お電話やFAXで、「まだ申し込み受け付けはできますか」「事前申し込みはいつまでですか」「当日は何時頃から入場可能ですか」・・・等々の事前問い合わせも多数。いつになく動揺した雰囲気に主催者皆川としても緊張は高まり、これはとんでもない人数が来場するのではないか・・・と怯えながらの当日となりました。


 いよいよ当日、まずまずの好天。

13時半開場時間。そのちょっと前に到着した、スタッフである私の娘2人と、発表者である鈴木賢二君は、会場内でほっともっと弁当を食べ、皆川は演台垂れ幕をがびょうで貼っているなどしているところでしたが、開場と同時にぞくぞくと人が入場して来られ、10分前には予想していた机・いすもほぼいっぱいになり、あわてて後方に椅子を追加で出して、・・・と、まあ、「入り切れないほど」、ではないにしろ、「50人はちょっと越えたかもしれない」くらいの方々が、しんた21会場を埋め尽くした?のでありました。


 正直なところ、この2年間、ズームなどの「遠隔授業」「遠隔講習」にもすっかり慣れ、こうした対面型の旧態依然の講習会はもう時代遅れかな、とも覚悟しておりましたが、逆に、こうした「集会」を待ちかねていたかのように、続々とお集まり頂いたことには、ただただ驚き、と、また、「孤独死はいやですか?」というテーマの訴求力がそれなりに大きかったということか、と思わされました。


Ⅱ 内容

 主催者の主観を大いに交えながら、内容をまとめます。

(1) 孤独死とは?

 孤独死、には、明確な、学術的な定義はありません。

 一般的に挙げられている項目として、

 ①自宅内の死亡

 ②看取りなし

 ③独居

 ④社会的孤立(ケアがない、一定の接触がない、社会的なつながりの欠如)

 ⑤自殺ではない

などが挙げられています。それに加えて、新聞やネットの報道から、種々調査などをみると、たとえば「死後2日以上を経過して発見された」などの項目が追加されていることもよく見られ、私どもは、少なくとも、「警察沙汰になった」死に方、ということを前提条件にしてはみました。


 室蘭警察署高橋刑事にご協力頂き、登別市・室蘭市の、検案になった事例数を調べてみましたが(資料「★登別・室蘭の、孤独死の実情」参照)、2021年、登別・室蘭で検案となった死亡数(すなわち、「警察沙汰になった」例)が、計242例。そのうち、住民届け上、独居、だった方が、96例でした。登別に限ってみると、死亡者総数が657人で、うち32人の方が検案、独居、でしたので、おおよそ5%くらいの方が「孤独死」でしょうか。

 この、「警察沙汰になって」「独居」ということが、「孤独死」「孤立死」に近いものと、一応は考えておきます。

 しかし、必ずしもそうでもない、ということも、東京、嵯峨崎さんの報告から明らかになりました。というのは、嵯峨崎さんは東京江東区で訪問診療・訪問看護をやっているクリニックの看護師さんですが、東京では、孤独死・孤立死に類する状況があまりにも頻繁で、警察で処理もしきれない、クリニックに以前かかったことがある患者さんの場合には、クリニックに警察から連絡が入って、あまり問題にならないケースでは、クリニックの方で死亡診断書・死体検案書を発行する、ということもどうやらありそう、・・・どうも、あまり大っぴらにしにくいような話のようにも聞こえます。


 私皆川は、室蘭警察署の「検案医」にも登録しています。本来は、医者にかかっていて、今現在治療中、の病気で亡くなった場合、には、その医者が「死亡診断書」を書くことになりますが、たとえば、開業医にかかっている場合でも、自宅で亡くなっている状態で発見された、という場合、少なくとも当地では、その開業医に連絡をする、ということはほぼありません。御遺体を警察が引き取って、私たち検案医が呼ばれて、場合によっては札幌に送って解剖をする、ということになります。だから、東京のように、警察がいったん関与したあとで、かかりつけ、かもしれない病院に連絡が行って、そちらで死亡診断をする、ということは、かなり珍しい、気はします。


 一方で、島根県中山間部、奥出雲町で唯一の病院の院長の、鈴木君の報告では、自宅で亡くなっている、という方でも、ある意味、奥出雲町の住民はほぼほぼ彼の病院の患者さん、のようなもので、しかも高齢化率もかなり高いので、明らかに「事件性」がないケースであれば、病院で処理をすることもかなりある、ということが伺えました。


 要は、もし、「孤独死」ということについて、統計的に調査をしようと思っても、そもそも「孤独死」の定義が定まっていないのですからどうしようもないのですが、その上、各地域によって、大都会東京、や、病院が一つしかない山間の小さな町や、全国屈指の病院過多地域である室蘭登別、によって、その御遺体を、どう処理をしているか、が違うらしい。・・・突き詰めると、結構ダークなところに入り込みそうな内容が顕わになりかかったのでした。


(2) 孤独死の手前

 孤独死、の問題は、若年者にも広がっている、ともよく言われます。閉じこもり、引きこもり、などの問題から、自宅内で一人で死んでいる若者、というのも、東京では当たり前に多いのだとか。ただ、ここでは、登別の現状に即して、と言いましょうか、「高齢者の方が、『寿命』としてお亡くなりになる際に、一人で死ぬ、という状況が考えられるだろうか」という問題設定としています。


 その場合、今回の演者にある程度共通した意見として、お一人暮らしであろうとそうでなかろうと、「そろそろ危ないかな、食べられなくなってきたな、と思ったら、信頼できる医者を見つけて相談をしておくように」ということが、とにかく強調されます。今の日本では、亡くなった際に、医者が「死亡診断」をしないことには結局警察沙汰になり、場合によっては解剖、ということになる。高齢の方は、「孤独死」はともかくとしても、警察沙汰にならないためには、今現在は健康で、医者にかかっていなくても、その手前のところで医者を確保しておいた方がいい、ということです。


 しかしまあ、この「信頼できる医者」というのが難しい。

 私自身は、今現在は訪問診療を専門にしていますので、まあ手前味噌になりますが、私のところにご相談下さい、ということになっちゃいます。だって、そろそろ動けない、そろそろ食べられない、ということになってくれば、かかりつけの開業医であれ病院であれ、診療を受けにいくことが難しくなるわけですし、そもそも、亡くなったあと、ご自宅にまで死亡診断に来てくれるかどうかがわからない。だから、こうしたことは、訪問診療/往診をやっている医者ではないと相談できない、ということになりそうだからです。私のことは、信頼してもいいですよ、っちゅうわけですが、まあ人間どうし、相性、ということもあるし、信頼してもらえないこともあります。


 が、これもまた、地域によっての差はかなりあって、鈴木君の病院のある奥出雲町では、まだはっきりと「訪問診療」をする医者、というのがおらず、今後病院として考えていかないといけない、という段階のようで、そもそも田舎に行けば行くほど、訪問診療、ということも当たり前ではない。当地で言うと、皆川はずっと白老町のことを気にかけておりますが、白老町にも、訪問診療の医者はいない。1‐2年に一度、など、忘れかけたくらいの頃に、何とか訪問してくれないか、と相談の電話が入ることがあったりして、それぞれに対応はしていますが、今は昔と違って、いなかに行くほど往診・訪問診療はやっていない。昔は、通院する足もない、ということもあり、いなかほど往診は当たり前だったものですが。


 逆に、嵯峨崎さんによれば、今では東京には、訪問診療をやるクリニックが山ほどあります。でも、我々のようにまあまじめにやっているところからすると、はっきり言って(いいのかな)「粗製濫造」、だそうで、ほんとに信頼できる訪問診療医を探すのは結構大変だ、とのこと。人口密度が大きいので、医者の数も多いことは多い。自分の住んでいる地域に、訪問診療を行っている医者はたくさんいるけれど、しっかりした訪問診療をしている医者がどれほどいるのか、・・・ということのようです。


 訪問診療を行っている医者がいる、いない、も、地域によって様々ですが、ひとまずは、少し手前の段階で、まずは近くの開業医、かかったことのある近所のお医者さん、のところに相談に行っておくことをお勧めします。そこで、自分がもし一人で自宅で亡くなった場合、あるいは具合が悪くなった場合に、どうしたいのか、希望を伝え、可能なら、文書に残すなどの方法もとる。登別のような土地であれば、よほど具合が悪い際、あるいは、亡くなった場合には、開業医の医者でも、自宅へ出向いてくれることもありますし、あるいは、いよいよの際には私のような訪問診療医に相談を回してくれる、ということもあります。


(3) ほんとに一人で死ねるのか?

 皆さん御承知のように、高齢者の数はどんどん増えています。同時に、いわゆる核家族化、も当たり前になって、高齢の独居世帯もどんどん増えています。おそらくこの傾向そのものは、当分続くことでしょう。ですから、どうしたって、一人で自宅で死ぬ、というケースも増えていくには違いありません。(資料「★65歳以上一人暮らしの者の動向」参照) 一人で自宅で死ぬ、ということをどうしても避けたいのであれば、極論すれば、一人で住まないようにするしかないでしょう。事前に身内の方と相談して同居するようにする、とか、施設などに入る、か、療養型などの病院に入院するか。・・・それは、その方その方で望むように選択されればよいと思います。


 皆川の考えでは、もし、一人暮らしを気楽に感じ、死ぬ時も一人で住み慣れた自宅で死にたい、とお考えの方は、それも可能ですよ、ということです。先に書きましたように、まずは近くの開業医・かかりつけの医師にその希望を相談し、必要に応じて、訪問診療医が関わるようにすれば、ご自宅で一人で亡くなることは可能です。それは、私たちのように、訪問診療に携わっている者からみれば、まったく不自然なことではありません。


 東京、嵯峨崎さんのお話でも、この点はまったく同じで、東京でも、多数の「ひとりでの在宅死」を、嵯峨崎さんたちもご経験です。

 この点に関しては、島根、鈴木君は、独居の方の在宅死はそもそも不可能、と考えておられたようでした。これは、鈴木君の住む地域で、訪問診療・往診、ということが一般的でなく、そうした経験がそもそもないためでしょう。同じ医者であっても、病院でずっと勤務をしていて、訪問診療・往診という選択肢に触れた経験が乏しい場合には、「ひとりでの在宅死」など難しい、できない、と考えている医者は多くみられます。これは、登別・室蘭地域でも同様で、大病院に勤務していて、特に大学から短い期間派遣で来ている若い医者の場合など、私たち地元の訪問診療医との連絡も乏しく、同じように、「ひとりでの在宅死」などとんでもない、どころか、「歩けなくなった高齢者は退院できない」、と思っている医者も珍しくありません。


 さらに嵯峨崎さんに詳しく伺ってみれば、東京の実態は、登別とはまた大きく違う。東京では、登別と比較をすれば、「ひとりで死ぬしかない」という状況があまりにも多いようです。そもそも、「歳をとって、食べられなくなってきた、食事がとれなくなってきた、動けない」というような状況で、救急車を呼んだとしても、まあ、あくまで病院で診察を受けてから、ということにはなりますが、救急で診察を受けて、「特に何も悪いところはない、『老衰』ですね」と判断されれば、入院はさせてもらえない。そのまま自宅へ帰される。ひとりで救急車を呼んで病院に行っても、帰るときは、タクシーを呼んで自力で帰らなければならない。・・・東京では、人口当たりの病院の数は、登別・室蘭などに比べて圧倒的に少ないので、特にはっきりと治療が必要な病気、と判断されなければ、そうそう入院はさせてもらえない。一人暮らしだから…、などということは、入院の理由にはならないのです。


 あるいは、嵯峨崎さんは「有名なS病院」(どこでしょう?)などは、・・・とおっしゃっていましたが、1日35,000円もする差額ベッドを承諾すれば入院もできる、というような病院はたくさんある。35,000円はオーバーな例であるにしても、4,000円~程度の差額ベッドは当たり前で、本来は、患者さんが差額ベッドでない病室を希望した場合には、差額ベッドの病室しか空いていない場合でも、差額料金は徴収してはいけない、というルールはあるのですが、実際には、差額ベッドを受け入れられなければ入院させられない、という状況はまかり通っているようで、まあ、今のテーマの場合には、そもそも「病気」ではない、「老衰」では入院の必要はない、と判断されているのであれば尚更です(裏を返せば、高額な差額ベッド代を払えれば、「病気」でなくても入院できる、ということになります。政治家や芸能人でよく見かける事態ですね)。


 というわけで、東京では、否応なく、一人暮らしの方は(お金がない方は)一人で家で「死なざるを得ない」状況になっているからこそ、一人で家で死ねるように、一人で家で死んでも格別の不都合のないように、嵯峨崎さんたちのような「まじめな」訪問診療も探せばたくさんある、ということです。


(4) 医療の地域格差、という問題

 ここからは、皆川が毎回提示している、登別・室蘭地域の医療資源の話題に関連したことを繰り返し記します。


 別途お示ししている「人口10万人当たりの病床数比較」という資料ですが、これは毎回厚生労働省の出している報告を参照して私が作り直してグラフ化しているものです。

 人口10万人当たりの病床数、すなわち、「入院できる病院のベッド数」は、全国平均で約1,200床くらい、です。この数が、西胆振地域全体では、3,000床くらい。平均の2.5倍くらいあります。東京は900床くらいで、平均の4分の3くらい。島根県は1,500床くらいです。


 さらに細かく見ると、精神病院のベッド数、精神病床は、全国平均が250床くらいで、西胆振は約800床(全国平均の3倍以上)、登別に限れば1,500床!(全国平均の6倍!)に迫るほど、で、いずれにしても群を抜いて多い。いなかだから多いのか、というと、鈴木君の島根県奥出雲町にはそもそも精神病床はありません。嵯峨崎さんの東京都江東区にも、ほんのわずかあるのみですし、東京全体としても、全国平均の半分ほどです。


 療養病床は、全国平均が250床ほど。西胆振は実に1,000床に近く、平均の4倍。東京は200床ほどでしょうか。島根はほぼ平均、です。

 居住している皆さんは御承知でしょうが、一般病床、は登別は全国平均の半分ほどですが、室蘭の三大病院(市立病院、製鉄記念病院、日鋼病院)の病床数が圧倒的で、登別の救急の患者さんは大半、室蘭の病院に入院します。西胆振全体としては全国平均の1.5倍ほどもあり、三大病院の統廃合問題が語られ続けていますが一向に進展はありません。


 こうしてみると、あらためて、東京という地域がいかに「入院できる病床が少ないか」、私たちの住む登別~西胆振地域が、いかにベッド数が多いか、中でも特に、精神病床や療養病床、という、現代においてはおそらく、高齢者がその大半を占めるであろう病床が、圧倒的に多い、実際、全国トップといっていいレベルであることがわかります。

 私も、「地元」の人間、としては、「全国トップ」と素直に喜んでいればいい、のかもしれませんが、あちこちの地域を回ってきた一医者、の立場としては、そう素直に喜んでいられません。


 まず、単純に、東京と登別を比較した場合に、入院できるベッド数が3倍、療養病床に限ってみれば5倍もの差がある、ということです。もちろん、「東京には昼の人口が少ない」とか、「高齢化率は登別の方が高い」とか、様々意見はあるでしょうし、すべての地域を公平にすることは難しいに決まっていますが、それでも、「医療資源」としてみたときに、地域によって5倍もの格差がある、というのは、国全体としては大きな問題でしょう。度々憲法議論になって、最高裁で争われている、選挙における「一票の格差」、など、比べ物にならないくらい大きな格差なのです。


 日本では、国民皆保険制をとっていて、皆でお金を出し合って、「病気」になったときの治療は安く受けられるように、として、病院の数や医者の数も、国が関与して制限をしています。ですから、私たちは、たとえば旅行や引っ越しでどこの土地に行っても、安い金額で医療を受けられることができる。これは国としての、国民としての方針であって、皆公平にお金を出して分担している以上、どこの土地であっても公平であることがやはり原則にはなります。確かに、健康保険料は、地域によって若干の差はあって、高い地域、低い地域はあるのですが、それでも、同じ状態の方が、ある地域では入院できるが、他の地域では入院できない、というのはやはり問題なのではないでしょうか。


 西胆振地域は東京より3~5倍のベッド数を持っている、ということは、保険医療費を3~5倍使っている、ということでもあります。もちろん外来診療費もありますし、正確な数値でないことは承知ですが、医療施設が多い、ということは、医療費もたくさんかかっている、ということは概ね間違いないことです。公平の原則に基づいて、公平に負担している健康保険医療費を、特定の地域が多く使う、ということは、本来あまり望ましいことではないでしょう。


 もうひとつ、今回の市民講習会のテーマに即して言えば、病床数が多い、ということは、「ひとりで死ぬ」という選択肢を奪われている、ということにつながる、と指摘しておきましょう。受け入れる病院側としてみれば、病床が余っていれば、ベッドが空いていれば、どうしても、来た患者を、入院させよう、という方向性となります。ベッドが空いていれば、「そろそろ退院したい」という入院患者がいても、「まあもう少しゆっくりしていきなさい」という方向性となります。これは、個々の医者の態度の是非、ということではなく、大きく、環境の問題、だと思います。東京のように、そもそもベッドがいっぱいで空いていなければ、医者の態度として、「入院させる」というハードルは高くせざるを得ないし、登別のようにベッドがたくさんあれば、ハードルは低くなる。東京では入院させないような患者も西胆振では入院させる、ということになるのは、まあ言えば当たり前、なのです。


 これは、もちろん、一般的に考えれば、住民にとっては嬉しいことと言えるでしょう。具合が悪くて病院に行く、救急車に乗っていく、と、ウエルカムで入院させてもらえる。

 しかし、今回のテーマのように、高齢者が、寿命としての死に際をどう考えるか、自宅で一人で死にたい、と考えた時にそれがかなえられるのか、という観点で見た時には、逆に、「家に帰れない」、「すぐに入院させられる」という見方にもなりかねません。東京ならとっくに退院しているような患者も、西胆振ではずっと入院している、という例は、たくさんあるのです。病院がたくさんあれば、自宅で死ぬ人は少なくなる、まあ当たり前と言えば当たり前のことかもしれません。(資料「★自宅死/施設死の割合」参照)


 事実、あまり大きな声では言いにくいのですが、当地で何度も私は、「退院させてもらえない」という声を聞いています。私のところに、直接電話で相談があるのです。

 「高齢の父が具合が悪くて入院して、もう食べられなくて、点滴だけしているけど、もう1ヶ月くらいで亡くなるだろう、と主治医の先生に言われた。それなら、もう年齢に不足もないし、コロナ禍で面会もほとんどできないし、本人も、最後は家に帰りたい、と言ってるので、退院させてやりたいのだが、往診してくれるか?」というようなお電話。私の方は、退院されればすぐに往診しますよ、とお返事するのですが、その後、「病院の先生から、こんな状態で帰ってどうするのか?とても家では面倒見れないだろうし、みすみす死ぬとわかっているのに帰すわけにはいかない、と言われて、退院を許可してもらえない。もう1ヶ月で死ぬ、と言いながら、なんで家に帰せないのか?」との連絡。・・・


 こうしたご相談、「主治医に退院を許可してもらえない」というご相談は、これまで他の土地ではほぼ経験したことがないものです。当地に来て、しかも、コロナ禍で面会ができなくなって、だいぶ増えました。

 もちろん、積極的な加療中で、改善の見込みが高い場合、「今退院するのは無理です」ということはあり得ます。極端に言えば、今手術中、という患者の家族が「今退院させてくれ」、と言っても、もちろん医者は断ります。が、高齢者でもう予後が1ヶ月、というようなケースで、退院を許可しない、ということは、ちょっと聞いたことがない。医者に、そんな権利はない、と私は思っていた。・・・時代が変わった、ということなのか、・・・私は、これも、ベッドがたくさんある、ということと関係があるのではないか、と思っています。その医師個人の問題、ということではない、「ベッドが空いていて、入院していていい、という状況なのに、なぜこんな状態でわざわざ家に帰るのか」という雰囲気に、地域全体がなっている。


 もちろん、「入院が必要な患者が入院できない」ということは問題なわけですが、「入院しなくてもいい患者が入院する」ということも、同じように問題、だと思うわけです。難しいのは、「入院が必要な患者」ということが、クリアカットに決められない、ということもありますが、少なくとも現実に「入院する」患者、の基準は、地域によってこれだけ違うのだ、ということを、今回この市民講習会ではお示しできたのではないか、と思っています。


 私たちは、自分の住む地域、環境にどうしても縛られて生活をしています、せざるを得ない、のかもしれません。病院がたくさんあるところでは、病院で死ぬのが当たり前、と考えても当然なのかもしれません。しかし、本来、病院は「病気を治して家に帰る」ためのところであって、当たり前に、「そこで死ぬ」場所ではないはずです。皆が共通に迎えなければならない最期の時を、もし、一人で、自宅で迎えたい、というのであれば、その自由、その選択も尊重されて然るべきだろう、と思います。


 そのためには、こうして、ほかの地域の実情、日本全国、あるいは諸外国の実情、ということも知り、自分がどうしたいのか、どんな形で最期を迎えたいのか、を、それぞれの方に考えて頂きたい。


 本講習会がその小さな一助になれば、と思います。


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